【巻頭エッセイ】

「言うなかれ君よ わかれを」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

先週、「南京の真実」第二部の撮影で金沢に行って来た。
南京陥落戦を戦った元兵士の方へのインビューだが、今回は南京戦の戦闘
詳報に書かれた「六千名から七千名の敗残兵処分」についての事実を聞こう
というのが、主な目的だった。
この件については秦郁彦氏が敗残兵の虐殺と断じており、これについての検
証である。

N氏は金沢第九師団歩兵第七連隊に属して、陥落戦からその後の南京城内
警備を担当した方である。
この方に「敗残兵六、七千名の処分」について聞いた。
今年、九十四歳のN氏によれば、南京城内にいた敗残兵が場外に一斉に逃
れ、揚子江まで来たが、船が足りず、全員が乗り込めず混乱している最中に、
追撃戦、掃討戦を戦う日本軍が進出し、大混乱に陥った支那兵の大部分は
後ろから押されてほとんどが揚子江でおぼれ、反撃した者は機関銃の銃撃等
で殲滅させられたという証言を得た。
城外に出て降伏した支那兵もいたが、それも降伏した兵隊の一部が混乱の
最中に反乱を起こして、日本兵に襲いかかり、これも銃撃や溺れるなどして
死亡した。
「六、七千名の敗残兵の処分」のこれが真相だそうである。

何のことはない、戦闘中の出来事で、それ以上でもそれ以下でもない。
虐殺などとんでもない話なのである。
秦氏は勝手に「処分」を虐殺にすり替えているのである。

もちろん、これから証言を元に、歴史的検証をしなければならないが、N氏は
また、珍しい資料を見せてくれた。
国民党の文書で、南京戦について書かれた報告なのだが、ほとんどの支那兵
は日本軍に追われて、揚子江でおぼれ死んだと記述されていた。
実戦を経験したN氏の生々しい証言には説得力があった。

もうひとつ、印象に残ったのは、N氏が九十四歳という自身の年齢と老いを
強く自覚していることだった。
つまり、間もなく来るだろう死を強く意識していたことである。
だから、本当のことを伝えたいという、N氏の切実な願いがより強く感じられた
のである。

実は、3月5日に、同じ南京戦を戦って、証言をしていただいた金沢第九師団
第十八旅団所属の斎藤敏胤氏がお亡くなりになった。
「南京の真実」第一部でも、証言者として登場していただいた方である。
N氏は、斎藤氏の逝去を御存知なく、私からその話を聞き、ショックを受けた
御様子だった。
「そうですか……これから、一緒に南京について、本当のことを伝えていきま
 しょうと言ってたんですが……」
N氏はそこで絶句して、しばらく沈黙を続けた。

戦友の戦死を聞いた時の御顔だと思った。

「南京大虐殺」という国際的情報謀略工作との情報戦で、私自身も戦友と共に
戦っているつもりだが、その戦いは「散兵戦」のイメージである。
弾丸の飛び来る中を一人一人の兵士が、それぞれ突撃して行き、次第に、共
に進む戦友が倒れていく。
そんなイメージなのである。
九十歳を越えた斎藤氏が私の「戦友」とはおこがましいかもしれないが、私は
そう思っていた。
そして、私自身、改めて、この死の散兵戦を最後まで続けようと決意したのだった。

先週、この欄で、三月十日が日本文化チャンネル桜の創始者の一人である田形
竹尾先生の命日だと書いた。
田形先生もまた、私を「戦友」だと思ってくれていたような気がする。
私にとっても、先生はかけがえの無い「戦友」だった。
平成十三年、先生を中心にした生き残り特攻隊員を取材したドキュメンタリー「特
攻 国敗れても国は滅びず」を製作したが、その中での田形先生の言葉を記す。


 「第一線で戦っている兵士が、心から忘れられないのはやはり、故郷、祖国
 ですから。
 で、ふるさとを偲びながら、みなさん戦って死んで行かれたんだと思います。
 戦いには負けましたけどね。
 ほんとに戦って、戦って、戦い抜けたということは、改めてここで感謝の気持
 ちでいっぱいですね。
 物心ついてから、今、自分が生きていることまで、生涯忘れられないのが、
 小さい頃の、母の想い出、父の想い出ですね。
 これが一番強いと思います。
 だから、そういう生死の関頭に立ったとき、一番先に想い出されるのが、や
 はりお母さんのことですね。
 これはもう、人間の本性だと思います。
 日本人だけじゃなくてですね。
 特に、日本の戦士はお母さんが育てましたので、お母さんが一番想い出され
 ます。
 お母さんが喜んでくれるだろう、悲しむだろう。
 ま、そういう気持ちで、お母さんをみなさん偲んでいました。
 特攻命令とか、特攻隊とか、戦士、戦争とか、そういうことで、死を軽はずみ
 にしているように思えるかも知れませんが、ほんとにたったひとつしかない命
 だから、命は大切にしなさい、健康管理に一番注 意しなさいと、小さい時か
 ら、それは真剣に、これも生涯忘れられませんね。
 ほとんどの戦友が同じような環境と、同じようなお母さんに育てられているん
 でしょうね。
 だから、魂の故郷は、戦士にとっては、お母さんが故郷ですね。
 そのふるさとが祖国とつながっているわけですね。
 お母さんが、だからそこに命を賭けられるということですね」

 (「特攻 国破れても国は滅びず」より  チャンネル桜で販売中)

 
ほとんどの日本兵は、戦後日本で言われてきたような軍国主義イデオロギーに
染め上げられた人間ではなく、血も涙もある勇気と優しさを持った日本人だった。

ドキュメンタリー取材の終わりに、作品の中で使う詩を先生と一緒に選んだ。
詩人 大木惇夫の「戦友別杯の歌」である。
戦後日本に対する孤独な「散兵戦」は、明日も続いている。


 「戦友別杯の歌」      大木 惇夫

 言ふなかれ 君よ  わかれを
 世の常を また生き死にを
 海原のはるけき  果てに
 今やはた  何かを云はん
 熱き血を  捧ぐるものの
 大いなる胸を たゝけ
 満月を盃にしだきて
 暫しただ酔ひて勢(きわ)へよ
 わが征くはバタビヤの街
 君はよくバンドンを突け
 この夕 相離(あいさか)るとも
 かがやかし南十字星
 いつの夜か また共に見ん
 言ふなかれ 君よ  わかれを
 見よ 空と水うつところ
 黙々と 雲は行き 雲はゆけるを


 … この詩はジャヴァ敵前上陸の時、従軍詩人としてその場に臨んだ
   大木淳夫氏が、万感その極に達し、口唇を突いて流れでたものである。
   今宵浪静にして、月明煌々たる南太平洋上に、敵土を寸前に控えた
   兵隊の胸から胸をゆすり、いつとはなしに全将兵はこの詩を合唱しはじめた。
   或る者は相擁して泣きながら誦い、或る者は船縁を叩いて朗誦した。
   (インターネット資料より)

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