【巻頭エッセイ】

「田形竹尾先生が遺したもの」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

三月十日は、日本文化チャンネル桜の創始者の一人である田形竹尾先生
が一年前に、九十一歳で亡くなられた命日である。
陸軍准尉で特攻隊の教官であり、自らも特攻隊員だった田形先生らしく、
旧陸軍記念日であり、東京大空襲のこの日に、あちらの世界に逝かれた。

この日、私は桜のスタッフや二千人委員会の上田さんなどと共に、所沢の
「シティーメモリアル」という墓所にお参りして来た。
まだ、新しく造成された墓所だが、先生の墓石には「釈誠徳」の戒名とその横
に小さな桜の枝が彫られている。
それを見るたびに先生の笑顔が目に浮かぶ。
お供えの花と先生の好きだったぼた餅やチョコレート等の菓子を墓前に供え、
般若心経を唱えた。

しかし、私にはどうも生理的に、田形先生が御墓の中にいるように思われな
かった。
お亡くなりになられて以来、空気のように、私の中、私の周りにいるような気が
してならないのである。
いや、私が呼吸をするたびに出たり入ったりしている気がするのである。
科学的にはあり得ないことだが、そう感じるのである。
だから、私にとって、田形先生は亡くなったが亡くなっていないのだ。
だから、先生を喪った悲しみとは違う気持ちが今でも続いている。
たぶん、それは私が死ぬまで続くような気がする。 

田形先生に初めてお会いしたとき、先生は「私の後ろには航空特攻で戦死した
四千名の英霊がおります」と話された。
今、私にはそれが分かるような気がするのである。

その日、帰宅してから、パソコンに残された田形先生関連の文書を読み直して
みた。
するとチャンネル桜創立前に、私が原案を作り、先生と相談した「民族派衛星
放送チャンネル創設への趣意書」が見つかった。
読んでみて、私は改めて自分の原点と、先生と過ごした創成期の張りつめた
意気込みを思い出すことが出来た。
いや、感じることが出来たのである。
少々、その若さが気恥かしいがその「呼びかけ文」を紹介してみる。


              【呼びかけ】
我等は呼びかける。
戦後日本において、封殺されて来た日本民族精神と伝統文化を今こそ復興させよ。
我等は呼びかける。
未曾有の危機にある祖国日本の為、
全国の愛国憂国人士、全ての民族派、全ての草莽は、小異を捨て、大同団結せよ。
我等は呼びかける。
戦後五十余年、左翼と市民左翼に奪われていたメディアを我等の手に奪還せよ。
我等は呼びかける。             
我等が独自のメディア創設により、祖国に真の言論の自由を実現せよ。
我等は呼びかける。
奪還せるメディアと言論の自由を行使し、広く深く、我が同胞に覚醒を促し、
恥ずべき東京裁判史観を粉砕せよ。
日本国憲法を破棄し、新憲法制定、靖国神社国家護持、自衛隊の国軍化を実現せよ。
我等は呼びかける。
大東亜戦争に散華した英霊の願いと祈りを我等の手で実現し、
偉大なる祖国日本を再建せよ。
我等は呼びかける。
祖国は疲弊し、危機にある。
戦後体制は破産した。
祖国は再び敗れたのである。
しかし、英霊と我等の大和魂のある限り、国は破れても国は滅びない。
我等は呼びかける。
幾百万の英霊とともに、全ての草莽は崛起し、祖国の未来を担え。
憂国の同志達は、既に老い、疲れている。
我等は待たれている。
我等は切望されている。
祖国と偉大なる英霊たちによって、待たれ、切望されている。
我等は呼びかける。
特攻に赴く兵士のように、笑顔で君もまた出撃せよ。
民族の未来は我等が魂の中にあり、我等の双肩にかかっている。
我等は呼びかける。
全ての草莽は草莽崛起せよ。


以上である。
肩に力が入り過ぎているが、思いは七年前と全く変わってはいない。
チャンネル桜には、数えきれない人々の往来があったが、チャンネル桜と私自身
は、全く姿勢を変えていない。
そして、戦後日本の破産状況も全く変わっていない。
私達は本当に祖国に「待たれている」のである。


  わが持てる提灯の炎はとどかずて 櫻はただに闇に真白し

                               岡本かの子

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