【巻頭エッセイ】

「一輪挿しの意味するもの」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

先週、デモや集会でお会いする皆さんから、「言葉」を超えた大きな「余白」のよう
な共感と励ましをいただいていると書き、人間国宝の能役者友枝昭世の言葉を
引用した。

「能はすべてを語りません。禅などと同様、余白を尊び、そこに美を見出します。
 余白を残し、多くを語らず、それこそが、もっとも大きな世界を描き出す唯一の
 道なのです」

先日、海外に在住のある女性からメールをいただいた。
その方は大病を患いながら、それをまるで自分の日常のごく一部であるかのよう
に受け入れ、淡々と、そして、少なくとも表面上は、自然な明朗さで生きておられる。

仏陀は、人間の人生を「生老病死」の「四苦」であると喝破したが、「四苦」を生きる
人間の進むべき道も示された。
私も「野弧禅」だが、僅かながら禅の世界を経験し、禅の「悟り」と言われるものの
おぼろげなイメージを得たような気がしている。
すなわち、塵芥にまみれた人間世界の周りに存在する「余白」に気づき、「余白」
になり切ることである。    

「余白」について少々書いてみる。

私が最も尊敬する宗教者である道元禅師は、その悟りについて「心身脱落」と述
べているが、道元を大悟に導いた支那の如浄禅師は「心塵脱落」と教えている。
同じ響きながら「身」と「塵」には大事な違いがある。
印度(天竺)から達磨大師によって支那に伝わり、また支那から日本に伝えられた
「禅」が、日本禅として、大きな発展と深さを獲得した瞬間なのである。

鈴木大拙は、外国人に向けた禅の解説書で、「私が無ければ、皆、私」という表現
で、神と人間が相対するキリスト教的「汝と我」の世界との違いを説明している。
言い方を変えてみると、「私が無ければ、皆、私」というのは、塵芥にまみれた有限
な個人の心身(の時空)を抜け出し、私と言う個人(の時間と空間)の周囲の「余白」
世界、その大きな世界と大いなる人間の物語の一部または全部に、自分自身が
なり切ることだと考えられるのである。

「心頭滅却すれば火も亦おのずから涼し」と述べて織田信長に焼き殺された快川
禅師の言葉も、火と対決せず、火そのものになり切れば、熱さなど感じることは
無いという意味だが、これは単なる主客の解消の意味ではない。
快川禅師は、自分が大いなる時間、大いなる「余白」になり切ることを述べたので
ある。

ところで、その「余白」こそが、実は我が国の伝統であり、歴史であり、文化であり、
皇室の伝統なのである。
「八紘一宇」は、よく、「人類皆兄弟」の意味だと言われているが、私にとっての
八紘一宇は、今を生きている人類だけではなく、過去の先祖(人類)も未来の子孫
も含む、まさに時空を超えた人類皆兄弟なのであり、大いなる人類の「余白」なの
である。
我が国の「天皇」の存在は、人類の大いなる「余白」の象徴であり、神々の世界や
過去の祖霊や未来の子孫を結ぶ現実的、肉体的な御存在なのである。

道元禅師が、大悟を得て仏となった時、権力との癒着を極端なまでに嫌いながら、
皇室への深い尊崇の念を抱き続けたのは、かくの如き理由があったからではない
かと思う。

さて、固い話から元に戻すと、私は海外から貰ったその女性のメールを読んだとき、
美しい一輪挿しの生け花を見たような気がした。
一輪挿しの生け花は、西欧風の生け花と違って、美しい花々で空間を埋め尽くさ
ない。
一輪の花だけの空間は、「余白」によって、そのひそやかな奥深い美しさを際立た
せる。
言葉や物によって語られない美、語られない物語、語られない遥かな時間を表現
するのである。

「余白」の文化こそ、日本の伝統文化であり、西欧文明と根本的に異なる点である。
「もののあはれ」や「無常」が、美と分かちがたく結びついているのは、日本の美が
「時間」を本質としているからではないだろうか。

そう言えば、今、上野の美術館で興福寺の阿修羅像展が開かれているが、その
御顔の美しさもさることながら、孤立して佇む阿修羅像の視線の先にある、「余白」
がその美しさを生み出しているような気がする。
余白とは、長い歴史の中で、語られなかった、伝わらなかった人の世の嬉しかった
り悲しかったりする無数の物語であり、それを阿修羅が見つめているような気が
するのである。
阿修羅像の美しさは、一輪挿しの美と共通するものがある。

「時よ、とまれ、お前は美しい」
ドイツの大作家ゲーテは、大作「ファウスト」の終わりで、この言葉を書いているが、
「時間」を空間化して見ようとする西欧近代主義の象徴的名表現だとも言えるだろう。

日本的な表現ならば、「時よ、全てよ、流れよ、お前は美しい」になるのではないか。

前述の人間国宝能楽師友枝昭世は、般若の面についても面白いことを述べている。

「般若の面というのは、一般には恨みや怒りの顔と思われがちですが、よく見てい
 ただくと、実はあれは、悲しみの表情です。大きく見開かれた眼は、嫉妬に駆られ
 荒れ狂ってのものではなく、こぼれそうになる涙を必死にこらえている眼なのです」

「言葉」は、常に限界がある。
思いの全てを語ることはできない。
そして、人間の命も有限である。
この人生の現実を直視した果てに、日本の伝統文化の基礎となった和歌、俳句、
茶道、水墨画、生け花、禅等々が生まれて来た。

繰り返しになるが、私達は、祖先が守り伝えて来た、言葉では語られない「余白」
にこそ、美や真(まこと)、大きな物語があるとの考えを、もう一度、見つめ直すべ
きである。
阿修羅像や般若の能面が無言で語りかけてくるこの「余白」こそ、我が国の二千
年以上の歴史と伝統、皇室であり、日本という国体を形成する遥かな「時間」で
あり「空間」であるからだ。

チャンネル桜は、二千年以上積み重ねられて来た先祖たちの「余白」の思いを常
に大事にしながら、今を生きる「日本草莽」の「志」を信じる草莽メディアであり続け
たいと願っている。

 祖国の大きな未来「物語」を
 共に創るため、
 共に歩まんことを。

さて、御知らせである。

私達は、今月二十五日、司法記者クラブにおいて記者会見し、NHK「ジャパンデビ
ュー」に対する抗議とともに、番組のヤラセ、ねつ造、歪曲の事実によって、不当
な視聴料支払いを強制させられていることについて、財産権の侵害を理由に、
集団でNHKを告訴することにした。
中央での一万人訴訟を集団でおこなうことと、日本各地で、同時多発的に日本草
莽が、同様な訴訟を起こすことを目指したいと考えている。

ほとんど、金はかからないので、日本草莽の皆さんはNHKに対する正義の戦いに
是非立ち上がっていただきたい。
NHKへの抗議デモも、六月二十日に第三弾を決行する予定である。
詳細については、近日中にお知らせする予定である。

 青海原 潮の八百重の八十国に つぎてひろめよ この正道を   平田篤胤

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