【巻頭エッセイ】

「地下に眠るM よ、きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

NHK「JAPANデビュー」の抗議運動にかかわっていて感ずるのは、デモに参加して
くれる人達に若い世代や女性がずいぶん増えたことである。
反面、いつも集会や講演会でお会いする年配の人の御顔が見えないと、病気なん
だろうかと心配になる。

集会やデモは、勿論、その政治目的のために集まるのだが、それ以上に、再会の
喜びや新しい出会いの楽しみの場でもある。
普段は何の関係もない人々が、祖国日本の未来を憂いて集まり、そして数時間の
時を過ごし、再び、それぞれの生活や家庭、仕事場へと別れていく。
もしかしたら、もう永久に会えない人もいるだろう。
まさに「一期一会」である。

「また明日 お会いしましょう もしも明日があるなら」

デモや集会が終わり、皆さんと別れを告げるとき、いつも思いだす詩の一節である。
荒地派の詩人、鮎川信夫の詩に、こんな一節があったような気がするが、この詩
は戦場に向かう兵士の言葉として綴られていたような記憶がある。

鮎川という詩人は、大東亜戦争で亡くなった兵士たちの「遺言執行人」「代弁者」と
して数多くの詩を作り、生き残った大正生まれの世代が、戦後をどう生きるべきか
を一生をかけて問い続けた詩人だった。

家族や友人、恋人に、「また明日 お会いしましょう もしも明日があるなら」そう告げ

ながら、出征し、散っていった無数の兵士たちの「語られなかった遺言」それが、
今を生きている戦後世代の私達に託され、残されている。
それは何も靖國神社に参拝したときだけ感ずるのではない。
デモや集会でお会いする皆さんのそれぞれ顔の中に、遥かに遠い祖先の笑顔や
泣き顔、喜びや怒りの顔を見ているような錯覚を時々感じるのである。

私の「本業」?だった映画の世界も、また別れの哀しさ、深さを感じさせてくれる場
である。
長くても数ヶ月間だけ、撮影のために延べ百人近くの役者やスタッフが集い、そし
て撮影終了となれば、潔く「また、次の映画で会おう」と、散り散りになり別れていく。

もしかしたら、永久にそんな機会はもう無いかもしれない、それを知りながら、映画
人たちは明るく散っていく。
映画製作はこの別れがあるから止められない、そんな気がする。

鮎川は、どちらかと言えば左翼系の詩人と見られていたが、私はそうは思わなか
った。
彼の詩に描かれた生臭い死の匂いと底知れぬ孤独、やりきれないような憂鬱な
エロティシズム、戦後日本に対する彼の深い軽蔑と絶望、そして微かな羨望がしん
とした静寂の中で語られて、若い頃は随分魅かれて読みふけった。

彼がいわゆる「戦後左翼」でなかったことは、彼に最も影響を与えた文学者が、
英国のT.S エリオットだったことからも分かる。
エリオットの一節を紹介する。

 「真の歴史的意識とは、単に過去の過ぎ去ってしまったことの意識のみに止ま
  らず、過去の現存することの意識を含んだものである。そしてかかる歴史的
  意識のみが未来を担う力を具現し得るのである。未来は過去を併合すること
  によってのみ過去を征服することが出来、未来が過去を自らの外に置き忘れ
  る時に、未来は直ちに未来ではなくなるのである」

まさに戦後日本の姿である。
鮎川も、大東亜戦争で生き残り、敗戦後、「戦中日記」で、自分が生きて来た時間
とこれからの時間について考察する。

 「歴史が生々としてゐることは、人間が生き生きとしてゐることを示し、歴史が
  頽廃した時は人間自身が頽廃した時である。(中略)『永遠に今日のもの』と
  は常に歴史的なものであり、歴史をもたぬといふことは今日を豊饒に所有し
  てゐないといふことであり、当然未来も持たないものであらう。単に現在的な
  もの、といふやうなものは昨日のものでないばかりでなく、現在のものでもな
  いのだ。(「戦中手記」45年)」

こうして何十年前に読んだ懐かしい文章を引用してみると、随分、私もいろいろな
人物や詩や書物から影響を受けているのだと、改めて感じる。

自分自身は全くそんな年齢になった気がとてもしないのだが、間もなく、
私も六十歳になる。
道元禅師が常に繰り返した「生死事大 無常迅速」は厳然たる真実である。
ふと、能の演目にもなっている平忠度の一の谷の最後の和歌を思い出した。

 「行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし  平忠度」

桜の木の下で眠るといえば、西行法師は
「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)」

と歌って、その通りに亡くなったそうである。

禅は生だけを見ず、死を一緒に「生死」としてひとつに見る。
死を見つめること、自分を見つめること、過去を見つめること、未来を見つめること
は、どうやらひとつのものとして共通しているようである。

さて、懐かしさから、鮎川信夫の詩を一つだけ紹介しておく。
この詩を読んだ時に感じたちりちりとした微かな「胸の痛み」は、やはり私の「原点」

の一部になっているような気がする。


 「死んだ男」  鮎川信夫

 たとえば霧や
 あらゆる階段の跫音のなかから、
 遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
 ――これがすべての始まりである。

 遠い昨日……
 ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
 ゆがんだ顔をもてあましたり
 手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
 「実際は、影も、形もない?」
 ――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。

 M よ、昨日のひややかな青空が
 剃刀の刃にいつまでも残っているね。
 だがぼくは、何時何処で
 きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
 短かかった黄金時代――
 活字の置き換えや神様ごっこ――
 「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

 いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
 「淋しさの中に落葉がふる」
 その声は人影へ、そして街へ、
 黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

 埋葬の日は、言葉もなく
 立ち会う者もなかった
 憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
 空にむかって眼をあげ
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
 M よ、地下に眠るM よ、
 きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

    「鮎川信夫詩集1945-1955」(昭和30)所収

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