【巻頭エッセイ】

「暗き道にぞ入りぬべき」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

松尾芭蕉の生涯最後の俳句に「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」という
句がある。
荒涼として狂っているがごとき今の日本の政界、財界、メディア、あるいは
身近な桜掲示板に思いをはせると、この俳句が浮かぶのである。

詠んだ気持ちとはかけ離れた意味に使われて芭蕉翁にはまことに申し訳ない。
しかし、金欲、物欲、権力欲、虚栄欲等々で、奪い、奪われ、互いに言い争い、
非難し、自分の理論の優越を主張し、相手を罵倒する浅ましい姿、反対にそう
いう人達がまるでいないかのように、知らぬふりをして趣味の話を無理にし続
ける人々の姿を見ていると、つくづく今の日本は「病んで」おり、まさにこれが
戦後日本なのだと思う。

彼らのイメージは、腐ったクレゾールの匂いと死臭のような生臭い匂いを振り
まきながら枯野を一人、何やら叫びながら駆け巡っている狂人の姿である。

そして、一体、この荒涼とした枯野に、何が足りないのかを考えたとき、
「日本」が足りない、「日本」が彼らには決定的に足りないのだと分かった。
本気で皇室、聖上の存在を喜び、畏敬し、それに学ぼうと思っていないから、
枯野で叫び、駆け巡るのだと分かった。
あるいは世界最古の伝統と文化への畏れや誇りが全く足りない人々なのだと
分かった。

言いかえれば、本物の宗教心や伝統や文化への愛情と畏敬の念の決定的
欠如が原因だと私は気づいたのである。

例えば、桜掲示板のほとんどの人は尊皇や英霊への崇敬の念を語る。
しかし、なぜか私はどこかで「偽善」と「嘘」を感じてしまうことが多い。
いや、気持は確かにあるが、「足りない」のである。全く足りないのである。

なぜなのかと考えたとき、私は最も尊敬するドイツ文学の大家トーマス・マンが、
芸術家の存在とはと自問した小説を書いたことを思い出した。
「トニオ・クレーゲル」という小説である。

トーマス・マンは、芸術家を「月」のような存在だと表現した。
つまり、月の光は暗い夜を照らして、行く道を示してくれるが、太陽のように、
人間を温めたりするような現実的な力はない。
まさに政治と文化の違いを太陽と月で表したのである。

皇室の伝統は、天照大神という太陽の神から始まるが、私は天皇存在には
「月」に近いものを感じている。
天皇や皇室に「太陽」を求める人々がいる。
口では尊皇、崇敬の念を言いながら、その皇室の精神的権威を自分と重ね
合わせて利用しようとする卑劣な「現世利得者」たちである。

しかし、こういう連中が余りに戦後保守には多いが、当人たちはちっとも気づく
ことはないのだ。
恐らく永遠に。

それにしても天皇と皇族が、万葉の昔から詩人であったことは象徴的である。
芸術家は「月」であるからだ。

ふと、見まわすと枯野で様々な人たちが、一人で叫び、怒り悲しんでいる姿が
見えるような気がする。
そして、自分もまた、ついさっきまで、そうしていたような気がする。
枯野に叫び続ける人々の後姿を見つめ、枯野に立ち尽くし、風に吹かれ、
結局、私も溜息をつきながら、その後を追って歩みだそうとするような気がする。

映画「南京の真実」第一部の冒頭に掲げた和歌は、
和泉式部の初期の傑作である。
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山のはの月(拾遺1342)」
だった。

暗い道を照らす山のはの月は、仏教の教えの意味もある。

東京の夜をずっと過ごしていると、確実に、暗い道を照らしてくれる月が消失
したことを感じる。
その代わり自分を太陽の如き存在だと妄想し、それを叫びまわる輩が日本に
は随分増えてしまった。

都会にも、人間にも、月のある静かな夜が恋しいと思う

そう言えば、何処かの詩人が舌打ちしながら、詩に記していた。
「賑やかな奴はみんな信じられない」そして
「絶望をみみっちい救済とともに提出する奴も信じられない」と。

酒飲みは、話さなくても一緒にいて心地よく、飲んで時間を過ごす酒飲み相手
がいればなあと、いつも思っている。
特に優しい女性だったら最高である。
男は、他の時はともかく、酒を飲むときだけは、女が「月」になってくれることを
望んでいる。
多分、それは「文化」と言っていいものたろう。

 「そして夜が来ます。ものみなは休息する。私の前に拡がる無限の空間の中
  にある夢を見るために……理解するためではない……私は目を閉じます。
  そして私はさまざまな希望が、悲しげに歩んでいくような感じを抱きます」

                         画家パウル・ゴーギャンの手紙から

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