【巻頭エッセイ】

「日本が足りない!」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

今週の金曜日に放送された「闘論!倒論!討論!」は司会していて
面白かった。
特に、尊敬する西部邁先生と私との間で議論になった日本大衆社会論議は、
改めて戦後日本を考える上で大いに参考になった。

西部先生も私も、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」に
大きく影響を受けた人間である。
私は又、西部先生の戦後日本大衆社会論にもずいぶん教えられて来たし、
ほとんど先生と同じような考えを抱いていると思っていた。
それは今も変わらないが、今回、新たに気づいたことがあった。

それは、西部先生は私より少しだけ「日本が足りない」のではないかなと
感じたのである。
もしかしたら、先生は、明治維新から戦後日本社会の在り方を、西欧近代
社会とほぼ同列に見ているのではないかと感じたのである。

それを感じたのは、今回のNHK抗議デモや九千人の集団訴訟を起こした
日本草莽の人々への評価だった。
西部先生も西田参議院議員も、この社会における「大衆」の反逆として、
私や日本草莽の「草莽崛起」をあまり評価しなかった。
私の説明も不十分だったが、日本草莽を西部先生たちは戦後日本の大衆
社会における「大衆」としてしか評価できなかったのだ。

確かに、この見方はある一面では的を射ている。
そういう面もあるからだ。

しかし、西欧大衆社会の「大衆」とは大きく異なる点が存在する。
それは、ここが「日本」であるという点である。
日本には世界最古の歴史と伝統があり、人工的でない自然な国民国家意識
を国民が今も抱いているという点である。

そして、何よりも異なっているのは、私達の祖国には天皇陛下と皇室が
存在し、二千年以上の皇統が続いてきたという点である。
私が西部先生に「日本が足りない」と感じたのは、この点である。
誤解を恐れず言えば、先生にとって、天皇陛下と皇室の存在が余りに
「過小評価」されている、そんな気がしたのである。
今回、草莽崛起した日本国民は、近代主義的大衆という以前に、
「日本人」であり、そして、「日本」と「皇室」を意識して立ち上がった人々で
あるとの視点が、やや欠けているように思えたのである。

日本が足りないとは、尊皇の思いが足りぬことであり、尊皇の思いが足りぬ
とは、世界最古の国日本への畏怖が足りないことであり、祖先の歴史と伝統
文化への畏敬の念の足りぬことだと思われるのである。
これは近代主義に毒されたイデオロギーや思想といった類のものではなく、
日本人の「魂」の問題なのである。

NHK問題に立ち上がった人々の様子で感ずるのは、何よりも、このままでは
日本という祖国が滅亡するのではないかとの危機感である。
日本はもう駄目かも知れないと感じながら、それでも立ちあがった人々の
姿である。
私達日本人は、大東亜戦争がそうだったように、西郷南洲翁がそうだった
ように、特攻隊員の皆さんがそうだったように、勝ち負けなどは度外視しても、
「止むにやまれぬ」思いで立ち上がるのである。
そして、たとえ敗れ去り、滅びていく者であっても、この世の無常とはかなさ
「もののあはれ」として、限りない共感を抱くことが出来る民族であったのだ。

小林秀雄や太宰治は、大東亜戦争の敗戦を、鎌倉幕府の源氏最後の将軍
源実朝の最後に託して、「敗北すること」について論考している。

 山はさけ海はあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも  源実朝

小林はこの歌を評して
「この歌にも何かしら永らへるのに不適当な無垢な魂の沈痛な調べが
 聞かれるのだが、彼の天禀が、遂に、それを生んだ、巨大な伝統の
 美しさに出会ひ、その上に眠った事を信じよう」(実朝論) と述べている。

「日本が足りない」と私が言いたいのはこのことである。

太宰治は「右大臣実朝」の中で、実朝に、
「平家ハ、アカルイ」
「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と
言わせている。

現代日本が異様に「アカルイ」のは、日本人ほとんどが感じていることである。
ただ、その中で、今回立ち上がった日本草莽だけは違っている気がする。
「暗イ」のである。

彼等は自分達が立ち上がったのは、単なる「市民デモ」に立ち上がったの
ではなく、「戦い」に加わったことを、何処かで気づいている。
一言で言えば、これは戦争だからだ。
熾烈極まりない「情報戦争」だからだ。
今だ少数とはいえ、日本草莽がそれに気づいたのである。
これは、弱肉強食の時代が始まった世界で起きている「大東亜情報戦争」の
一大会戦であり、日本の将来を左右しかねない「正面戦」だと気づいたので
ある。

何を妄想の如きイメージを語っているのだと思う方は、
勝手に思っているがよい。
そういう人たちは、情報戦争の決着の後に、戦火を交える本物の戦争や
戦争の威嚇が来ることに気づかない。
戦争と平和は地続きであり、線引きなど本当は出来ないことにも気づかない。
六十数年前、敗戦で終わったはずの「大東亜戦争」だが、実は、情報戦争は
今なお継続されていることに気づかない。
GHQ(連合国司令部)によって、戦後日本社会で「日本的なるもの」の情報
掃討作戦が徹底的に推進されたことに気づかない。
いわゆる七名のA級戦犯の処刑は、大東亜「情報」戦争の掃討戦の結果と
見るべきなのである。

日本草莽は気づき始めている。
もし、今度のNHK「JAPANデビュー」の抗議活動が「敗北」に終われば、
マスメディアが日本国のマスメディアとしての「主権回復」する可能性は
ほとんど無くなることを。
少なくとも、この敗北は、敗戦以来六十数年続いてきた大東亜情報戦争の
第二の敗北であり、昭和二十年八月十五日の敗戦よりもさらに深刻な
日本人の「魂」の敗北となる。
日本人が日本人で無くなった根本的な「第二の敗戦」として、未来の日本人
子孫たちの記憶に留められることになるだろう。

戦後の冷戦構造の中で、戦後保守、とりわけ平成から二十年、言論活動を
行ってきた戦後保守論壇は、ほとんどこの事態に気づいて来なかった。
「戦後は終わった」「戦後体制の総決算」等々、保守政治家たちはこう言い
ながら、実は戦後日本で行われてきた日本の自立阻止と国体解体への
情報戦争に全く気付かなかった。
あるいは気付きながら、エージェント役として、逆にそれを推進して来た。

日本のマスメディアもまた、秘かに、あるいは公然と、その推進役を果たして
来た。
あるメディアはソ連や中共の意を体し、あるメディアは、アメリカの意志を
忠実に体現して来た。
アメリカの石油メジャーに挑戦した田中角栄を失脚させた「ロッキード事件」
は、マスメディアの役割を示した典型例である。

元々、彼らはGHQの手先となることで、様々な利権を得た
「敗戦利得者」たちである。
テレビメディアの公共電波利権や新聞利権、競輪競艇等の独占利権は、
まさにこの敗戦利得者たちに「占領軍司令部」からプレゼントされた
大利権である。
しかし、少し考えれば分かるだろう、本来、公共電波は国家国民のもので
あり、NHKを含め、あらゆるテレビメディアの収益の少なくとも半分は、
国家や国民に還元されてしかるべきなのである。  

そういう意味においても、今回のNHKに対する抗議の戦いは、単なる
NHKというテレビ局の番組偏向問題などではない。
GHQ体制から続く外国勢力とその手先から、日本国民の手に公共電波
(中央情報発信装置)を奪還する重大な情報戦争なのである。

この「戦争」に必要なものは、何よりも私達が日本人であることを忘れない
ことである。
「日本が足りない」とき、たちどころに、私達は敗れ去り、滅びることになり、
未来の子孫にこの美しい祖国日本を伝承させることが出来なくなる。
そして、それの可能性は高いのである。

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