【巻頭エッセイ】

「日本が足りない その二 白骨を秋霜に晒すを懼れず」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

先週のエッセイには、多くの反響をいただいた。
ほとんど賛同の御意見だったが、論の是非はともかく、お手紙を読みながら、
しきりに思い出される人物がいた。 

三浦重周氏のことである。
「日本が足りない」どころか、日本が満ち溢れた人物だった。

「だった」と書いたのは、三浦氏は、平成十七年十二月十日、冬の新潟の
海岸で、一人、壮烈な割腹自決を遂げていた。
私は三島由紀夫先生を追悼する憂国忌の発起人の末席を汚しているが、
三浦氏は長くその主催である三島由紀夫研究会の事務局長をなさっていた。

三浦氏の自決について、親しい友人だった宮崎正弘さんのメルマガの文を
引用させていただく。

「12月10日午後九時半頃、政治思想家の三浦重周(本名 三浦重雄、
 重遠社代表、三島由紀夫研究会事務局長)は郷里の新潟市の岸壁で
 寒風吹きすさぶなか、壮絶な割腹自決を遂げました。遺体の発見は
 翌日(12月11日、日曜日)午前九時頃で、直ちに近くに住む兄上が
 立ち会われて検視の結果、心臓部は肋骨に達し、咽喉部を切ったので
 喉に刃物がつきささったままの状態でした。三浦代表は皇居遙拝の
 かたちで正座したままうつぶせの状態であったことが判りました。
 菩提寺の三浦家代々の墓には本人が前日に訪れた足跡がありました。
 壮絶にして見事な割腹を遂げた大西中将の最後を思い出させてくれます。」
(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み - 平成17年12月14日・臨時版」より)

逆巻く波の打ち寄せる冬の日本海を背に、吹雪交じりの寒風の中、皇居遥拝
の姿で一人自決を遂げる三浦氏の姿が、あの自決以来、何度も思い浮かんだ。
そして、その姿に恥じない行いを、今、果たして自分が為しているか、胸の痛み
を少々感じながら問い返し続けて来た。

最後にお会いしたのは、その年の憂国忌だった。
三浦氏は、その時、私にワールドカップサッカーのサポーターたちの話をされた。

「いや、あの多くの青年達がサッカーの試合で、日の丸を振り、ニッポンと叫び
 つづける姿を見て、考えてしまいましたよ。何十年も民族運動をやっていて、
 私達が出来なかったことを、サッカーの国際試合が、いとも簡単に実現して
 しまいましたから…」

言葉の表現は正確でないが、三浦氏はこのような内容の話をしてくれた。

三浦氏はかつて民族派学生運動の指導者であり、同時に新民族主義運動の
屈指の理論家でもあった。
ただ、彼が後輩たちに語っていた「思想の価値は感化力である」との言葉は、
彼が何よりも空理空論を弄ぶ人間や口舌を軽蔑していたことを物語っている。

「感化力」とは思想を語る人間のことを意味していた。
批判と批評で世界は変わらぬこと、しかし、たかが(されど)サッカーの試合で、
ニッポン(日本)がさらりと顕現するこの「現実」を、彼は直視し、その意味を
考える勇気を持っていた。

青年たちに顕れた日本は、「保守思想」や「伝統主義」「民族主義」といった
イデオロギーによって生じたものではなかった。
同時に、これだけ酷く続けられてきた戦後の左翼偏向教育によっても、
防ぐことのできないものだった。
日本という自然国家の長い歴史と伝統文化の風土から、自然に湧き出たの
だろう。

今回のNHK「JAPANデビュー」の抗議に立ち上がった人々からも、私は同様
なものを感ずるのである。
不正を憎み、ねつ造や嘘を許さない誠実を求める気持は、日本人にとっては、
ごく自然なものであり、実は日本独特のものであるということだ。

欲望の赴くままに怒りや憎しみの「大衆の反逆」を繰り返す西欧近代社会の
大衆とも、支那大衆の反乱とも、全く異なるものだ。
日本独自の「草莽崛起」なのである。
その違いを感受出来るか、この戦後日本への草莽崛起を日本独特のものと
して直視し、引き受け、考えるかは、個性の問題である。

小林秀雄は「天という言葉」という題の文章で、福沢諭吉の文明論について
述べている。

「福沢は、東西文明の激突によって生じた文明の紛糾の条件なり原因なりを
 分析し、その解釈解法を求めた人ではない。私達が出会った文明の紛糾
 自体の形に、眼を据えた人だ。見れば見るほど、その姿は日本独特のもの
 と映り、その個性を、そっくり信じた人だ」

「少しも格別なやり方ではない。生活力の強い、明敏な常識を持った人々が、
 その個人的な窮境を打開するのと同じやり方であり、これを福沢は、
 思想人として、はっきり自覚していたまでだ。ヴィジョンは、解法を教えは
 しなかったが、活路は教えた。一歩踏み出すことを、実験によって自証する
 ことを迫った」

戦後日本の在り方を変革せんとするとき、この言葉は示唆に富んでいる。
再び、私はあの有名な小林秀雄の言葉を引用したい。

「僕は歴史の必然というものを、もっと恐ろしいものと考えている。僕は無知
 だから反省などしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」

考える人は大事だ。
考えるだけの人も重要である。
批判する人も大事だ。
批判するだけの人も重要である。
その姿を見ながら、私達も考える。
そして、一歩を歩み出す。

自決を遂げた三浦さんも、考え、歩む人だった。
あの壮絶な自決も、彼の思想であり、思想の感化力であり、彼の運動であり、
日本人としての在り方そのものだった。

彼は「遺書」などは一切残さなかった。
彼の命そのものが、私達日本人への遺書だったと、私は思う。

彼が自ら切り裂いた肉体は、艱難に向かいあう戦後日本そのものだった
ような気がする。

三浦さんを含め、日本と日本人のために捧げられた無数の命は、既に私達に
引き継がれ、その志と祈りの実現を私達は待たれている。

静かにそれを噛みしめながら、私達は立ち上がるのである。

 固より一身一家の功名はこれを求めず 白骨を秋霜に曝すを恐れず 三浦重周

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