【巻頭エッセイ】

「保守という生き方」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

民主党の政権交代から、「保守」についての議論がなされるようになった。
「真正保守」だの「似非保守」だの「語る保守」だの「行動する保守」だの、
あれこれ批判したり非難したりで随分賑やかだ。

しかし、私自身は「戦後保守」の思想潮流について論評することはあるが、
この「保守」という言葉や保守「議論」については、何処か、いかがわしい
ものを感じている。
それは一言で言えば「左翼」の臭いだ。
左翼イデオロギー論争との構造的共通性を感じて厭わしいのである。

ソ連共産党や中国共産党は、共産主義路線論争と称して、共産党内部
の権力争いを思想闘争として繰り返してきた。
いわく、「修正主義者」「反革命トロツキスト」「社会帝国主義者」「走資派」
「小ブル急進派」等々、もう数え上げれば切りがない。

多くの人間が「反革命分子」として、非難され、粛清され、膨大な数の人間
が殺されてきた。
昨日まで「同志」だったり、「先輩」や「指導者」だったり、「友人」だった人間
を頭のてっぺんから爪先まで全て否定し、最低で極悪人の「反革命分子」、
「人民の敵」として、非難、批判し、思想的に、政治的に、物理的に片づけ、
抹殺して来た。

この左翼の人間観、世界観は、彼等の言う「弁証法的唯物論」から来てい
るが、元をただせば、自由平等博愛を主張したヨーロッパ近代主義を源流
としている。

つまり、アメリカの共和党のような欧米の近代保守主義も、マルクス主義的
左翼運動や市民運動とも、実は根っこを同じくするもので、構造的には左翼
思想と共通しているのだ。

特徴的には、システムや制度、法律の問題が解決されると、世界は良くなる
はずだという十九世紀近代主義の楽観論がある。

しかし、世界や人間は、そんなものでは無いぞ、根本的に違うぞというのが、
私やチャンネル桜創立の想いである。
「伝統文化」の復興と保持、そして「敬天愛人」「草莽崛起」の考えは、近代
左翼や近代保守とは、極北に位置するものだ。

左翼や近代保守に欠落しているのは、東洋(日本)的世界観であり、宗教観
である。

簡単に説明はできないが、例えば「平等」という言葉は、西欧近代主義で言
えば、政治的や経済的に人間同士に差別が無いことをイメージしている。
しかし、東洋的思想で言えば、人間はどんな人間でも必ず死ぬという「平等」
をイメージするのである。

つまり、西欧近代主義は、「空間」の充実や拡大(システムや法律の充実と
拡大整備、物質的世界の拡大と充実)を中心思想としているが、私達の世界
観は「時間」の充実と拡大を基軸にしているということである。
時間の生み出す様々な感情や思想を人間的真実と受け入れるのである。

「無常」「もののあはれ」「わび、さび」も、皆、時間への関わりの思いである。
そして、西郷南洲翁の「敬天愛人」の「天」ですら、キリスト教における空の
遥か彼方にある空間的な天国ではなく、宇宙的な悠久の時間で構成される
「天」なのである。

以前、禅学者鈴木大拙の言葉として「私が無ければ、皆、私」という言葉を
紹介したが、これは空間的に自我を消したら超自我になると述べているだけ
では無く、時間という基軸で人間の存在を見るという視点を述べているのだ。
そして、そこから美的基準で世界を見る視点も日本文化から生み出されて
いる。

難しくなったので、ここらでやめるが、「正論」十一月号の連載で少し触れた
ある小説について書いておく。
その小説とは、二〇〇二年にイギリスの世界的文学賞である「ブッカー賞」
に選ばれた「パイの物語」である。

その中に、野生動物についての興味深い記述があり、動物学から言うと、
動物は非常に「保守的」であり、動物が自由を求めたり、広い大地で自由に
暮らしたがっているというのは虚構だというのである。
つまり、ジャック・ロンドンの「荒野の呼び声」やジョン・アダムソンの「野生の
エルザ」は「嘘」だということである。

この指摘は、「保守」という思想の本質を改めて考えさせてくれる。

少し長くなるが、その指摘部分を引用してみる。
「正論」十一月号の連載「南京製作日誌」では紙数の関係で引用できなかっ
た部分も入れる。


 悪意はないが事実を知らない人々は、野生動物は「自由」だから「幸せ」
 だと思ったりする。(中略)それがやがて、悪い人間たちにつかまって、
 せまい檻の中に放り込まれる。動物たちの「幸せ」は打ち砕かれる。
 動物たちは「自由」に恋いこがれ、逃げだすためにあらゆることをする。
 あまりに長く「自由」を否定された動物は、生き生きとした心を破壊されて
 亡霊のようになってしまう。人々はそう考える。でも実際はちがう。
 野生動物は常に危険と隣り合わせな上に食料が手に入りにくい環境で、
 上下関係の厳しい世界にがんじがらめに縛られて暮らしているのだ。
 縄張りは常に守らねばならず、寄生虫からは決して逃れられない。
 そんな状況を自由と呼べるだろうか?

 そう、野生動物は空間的にも時間的にも、そしてここの関係においても
 決して自由ではないのだ。ごく単純に考えれば、ある動物がその種固有
 の習慣や縄張りを一切顧みることなく、好きな所へ行ってしまうことも
 可能性としてはありそうだ。しかし実際には、そんなことはわれわれ人間
 以上に起こりにくいことだ。たとえば、家族や友人にかこまれ社会的地位
 もある商店主が、着の身着のままでわずかな小銭だけを持ち、それまで
 の人生をなにもかも捨てて蒸発してしまうというような、あらゆる生き物の
 中で最も大胆で知性を備えた人間が、だれとも関わらず、だれからも
 顧みられることなくさ迷い歩いたりはしないとすれば、どうして生理的に
 はるかに保守的である動物がそんなことをするだろう?

 そう、動物は保守的だ。反動的だとさえいえる。わずかな変化にも動物は
 過敏に反応する。そして、常に変わらぬ世界を望む。動物にとって驚きは、
 禁物なのだ。それは空間の占め方にも表れている。
 (中略)野生動物は来る年も来る年も、生存に関わる理由で同じ道を歩き
 続ける。(中略)

 もし君がある家の玄関を蹴破って、そこに住んでいる人々を追い出して、
 「行け!おまえたちは自由だ!鳥のように!さあ、行け!」と叫んだとしたら、
 人々は歓声を上げて踊りまわるだろうか?否、鳥は自由ではない。
 君が追いだしたひとびとはこう文句をいうだろう。
 「なんの権利があっておれたちを追い出すんだ?ここはおれたちの家だ。
 おれたちのものだ。ここに何年も住んでいるんだ。
 警察を呼ぶぞ、この悪党!」

 よくいうではないか。「わが家に勝るものはない」と。動物たちもそう思って
 いるのだ。動物は縄張りを作る。それこそが、動物の心を理解するカギだ。
 慣れ親しんだ縄張り(家)のなかにいるときだけ、動物は二つの過酷な
 要求を満たすことが出来る。敵を避けること。エサや水を手に入れること。
 (中略)

 動物園のなかの囲いは、一種の縄張りなのだ。(中略)
 家というのは、ぼくたちが生きるために必要なものを手軽かつ安全に
 与えてくれる凝縮された縄張りなのだ。

 (中略)考えてみてほしい。無料のルームサービスが受けられて、好きな
 だけ医者に診てもらえるリッツ・ホテルでの生活を捨てて、誰からも
 顧みられることのないホームレスの生活を選ぶ者がいると思うだろうか?
 しかし、動物はそんな判断はできない。かぎられた知能のなかで、
 目の前にあるものを受け入れるだけだ。

 (『パイの物語』 ヤン・マーテル著)
 

確かに、野生動物と知性のある人間とは違う。
しかし、それでも、私達人間も動物である。

しかし、市民の自由とか人権とかいうものが、いかに「時代的」な虚しく
はかないものかは、理解できるように思う。

国民が民主党を選んだのは、小泉改革によって、人々は家を追い出された
感覚を感じ、この動物的「保守感覚」から民主党を選んだとも言えるし、
これからの「保守」が行うべき方向性(縄張り作り)を示唆しているとも言える。

しかし、それにしても、この「保守」という言葉は何とかならんのかという思い
がする。
私達「戦後保守」の猛省と再出発は、保守という言葉の意味を考えること
から始めてもいいだろう。

 
  あきかぜのふきぬけゆくや人の中    久保田万太郎

一覧へ戻る