【巻頭エッセイ】

「呼びかける秋のように、人は……」

                   日本文化チャンネル桜代表 水島 総

この巻頭エッセイは、正論十二月号の「南京製作日誌」に書いたものを
一部使用している。
できたら、正論十二月号を購入、お読みいただければと思う。

今月は、人の死について色々思う月になった。

ひとつの死は、あの中川昭一氏の突然の死であり、もうひとつの死は、
団塊の世代の音楽家加藤和彦氏の自殺であり、さらにもう一つは、
最近起きた戸塚ヨットスクールの女子学生の飛び降り自殺だった。

「戦死」とも言うべき保守政治家中川昭一氏の死は、単に一政治家の死
ではなく、彼がこれまで守ろうとして来た「日本」自体の死を象徴している
ような思いに駆られた。

  「ますらをの かなしきいのちつみかさね
                  つみかさねまもる やまとしまねを」

三井甲之の名歌を何度も思い出す中川氏の死だった。

改めて、中川氏の御冥福をお祈り申し上げる。

中川氏の葬儀が終わって間もない十月十七日、東京・砂防会館で
「10・17日本解体阻止!守るぞ日本!国民総決起集会」(草莽全国地方
議員の会、チャンネル桜二千人委員会有志の会他主催)が開催された。
この報告をまずさせていただく。

この国民総決起集会には、ここ一年の集会としては最大の一千五百人
以上の参加者があり、会場に入りきれない人も続出した。
呼びかけ人は、渡部昇一、小堀桂一郎、井尻千男、水島総、松浦芳子で、
民主党政権発足を受け、日本の保守勢力の新たな結束と、これからの
保守の在り方を考える大演説会となった。 

出席は、政治家が平沼赳夫、山谷えり子、下村博文、稲田朋美、有村
治子、中山成彬、西村眞悟、赤池誠章、馬渡龍治、安倍晋三(ビデオ
出演)、草莽全国地方議員の会代表の松浦芳子杉並区議他十数名の
地方議員、文化人からは、渡部昇一、日下公人、百地章、田母神俊雄、
増元照明、すぎやまこういち、小林幸子、伊藤玲子、岡本明子、三輪
和雄、西村幸祐、井上和彦、大高未貴、村田春樹、平田文昭、柚原正敬、
永山英樹他の各氏が発言した。

司会は私と皇室ジャーナリストの高清水有子さん。

西田昌司参院議員と城内実衆院議員は、当日ギリギリまで調整をして
くれたが、交通渋滞等で間に合わなかった。
しかし、その努力に感謝したい。

開会の国歌斉唱に続き、「海ゆかば」が流れ、故中川昭一衆院議員への
黙祷と全員の斉唱が行われた。

志半ばで斃れた政治家の無念を想い、泣きながら歌う人々も多かった。
この演出を考えた私自身、歌う途中、胸が詰まって歌えなくなった。
満員の人々も、中川氏の死が一政治家の死を超えた何かであることを
感じていたのだろう。

失礼な物言いかもしれないが、良きものを胸に抱きながら、「酩酊した」
戦後日本自体が、遂に「死んだ」かも知れないのである。

果たされなかった志への思いからか、会場いっぱいの熱気溢れる聴衆の
ためか、登壇した人々の演説も熱弁が続いた。

基調講演をした平沼赳夫氏が述べていたように、保守の原点に返ること
の意義と日本保守の大同団結を強調する論が多かった。

渡部昇一先生は、東京裁判史観の打破を話され、日下公人先生は、
草莽崛起の言葉を取り上げ、
「草の根の人は、権力者と違い、たいてい損をします。しかし、損をしても
やる、損をしても立ち上がる、それが草莽崛起です」と話された。
加瀬英明先生は、世界から見たら「夢遊病者」のようにしか見えない鳩山
首相の言動をユーモアを交えて批判された。

政治家の諸氏も、聴衆の多さに驚いたことをそれぞれ口にしたが、聴き
ごたえのある熱い演説が続いた。
後半の若手ジャーナリストたちの演説にも拍手が何度も起こった。

そういう意味で、今回の国民総決起集会は、戦後保守の新たな再出発の
きっかけになったような気がする。

同時に、改めて感じたのは、日本保守の原点は、反左翼や反共といった
イデオロギーではなく、日本に生を受けた過去現在未来を貫く「いのち」と
「祖国」への愛おしさや慈しみであり、はかない「いのち」を同時代に共に
生きている共感、哀感といった「情」の世界なのだということである。

日本近代右翼の源流と言われる西郷南洲を代表する言葉に「敬天愛人」
がある。

皆さんもご存知のように、チャンネル桜の社是は、この「敬天愛人」と吉田
松陰先生の「草莽崛起」である。
同時に、私の座右の銘でもある。

今回、私自身、改めて気づいたことだが、「敬天愛人」という天を敬い、
人を愛すという言葉に「知る」という要素は入っていないということである。
いかにも西郷らしい。

西郷は知ることや知識や法律、制度で解決できる限界を知っており、つま
るところ人の「情」の大事さを述べている。
同時に、政治制度や法律を変革することで、世の中を変えられると単純に
考えている左翼的思考とも全く違うことを、この短い「敬天愛人」の言葉は
示している。

西郷は明治維新の同志大久保利通と袂を分かったが、二人の別れは、
西欧近代主義の洗礼を受ける際に起きた日本人の精神的分裂状況を
象徴している。

明治維新は、西郷の体現する日本「精神」と大久保が引き受けざるを得な
かった西欧近代主義的国民国家イデオロギーの「両輪」で推進されるのが
理想だった。
西郷の死は、明治維新の基となった日本「精神」が、西欧近代主義的イデ
オロギーに圧倒され、追い詰められ、滅ぼされていく姿だった。
西郷のイメージする「日本」は、西欧近代の知識を得て物質的な近代社会
と国民国家を成立させるよりも、まず天然自然を敬い、人を愛する「日本」
の保守であった。

西郷の「天」のイメージは、単なる空間的な自然概念ではない。
過去・現在・未来の時間を基軸とする時空一体の天然世界であり、空間の
拡大と充実を基とする西欧近代主義の世界観と真っ向から対立する。

この一種の時間的アニミズムの世界観は、日本人を含め、古モンゴロイド
各民族(南北ネイティブアメリカン・台湾高砂族等)特有の共通性があり、
これからの二十一世紀をリードする世界観たり得るものだと私は考えている。

しかし、現実世界は全く逆の方向に進んでいる。

江藤淳は大東亜戦争は世界に対する「西南の役」だったと述べたが、敗戦
後、保守合同で発足した自由民主党は、経済的に豊かな生活の実現と自主
憲法制定に象徴される「日本」復活の二本柱で出発した。
立党宣言がそれである。
まさに明治維新初期の二重構造である。

しかし、明治維新がそうだったように、戦後日本の経済発展の中で、「日本」
は自民党の中から次第に消え去っていく。
安倍内閣の誕生と崩壊が小さな最後の「西南の役」だったごとく、自民党内
にあった「日本」は終焉し、戦後六十数年にして、自由民主党は、民主党と
変わらぬ物質的「生活保護」政党に堕した。
それが今回の民主党政権を誕生させたのである。

中川昭一氏の死も、自民党の「日本」復活路線の完全終焉と軌を一にして
いる。

日本の戦後民主主義は、西欧近代主義イデオロギーの幼稚で病的な「大衆
普及版」である。
それが民主党政権を生みだし、ついに日本解体への暴走を開始している。

西郷に象徴されていた「日本」は、既にほぼ消滅した。

中川氏は自らの死をもって、私達に日本の死を告げ知らせたのかもしれない。 

もし、日本に明日があるとしたら、絶望的な厳しい現実と「原点」を踏まえた
ゼロからの再出発しか無い。
日下公人先生が述べていたように、日本草莽の多くが「損すること」を引き
受け、「損しても起つ」草莽が、日本にどれだけ輩出するかにかかっていると
言えよう。

西郷翁の遺訓にある言葉が、文字通り、日本人の性根を問うているのだ。

  命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。
  此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得ら
  れぬなり。
  西郷南洲翁遺訓より


さて、冒頭の死についてに戻る。

加藤和彦氏の死は、同じ戦後世代の死として、関心を持った。
鬱病だったらしいので、その死因や原因についてあれこれいうことは出来
ない。
しかし、淋しい人だったんだなとは思った。

ひとつは加藤氏自身がそうだったこと。
そして非難ではないが、病気がちの年老いた母を残しての自殺は、何か
引っかかるものがある。

親孝行しろとは言わない。
しかし、御自身の命が「自分だけのものだ」と考える戦後教育が、彼を
とても「淋しい人間」にさせていたような気がする。
先祖から親、今の自分、そして未来の子孫たちへと連なる「いのち」の
時間軸、これを実感できていなかった不幸が、その淋しい人にさせたような
気がする。

彼は才能ある音楽家だったから、年老いてきて、ついに、軽佻浮薄で偽善
だらけの戦後日本と一体になって生きた自分の虚しさ、哀しさに気付いた
のかもしれない。
晩秋の冷たい風のように、彼のこれまでの人生を冷え切らせたのかもしれ
ない。

彼は、昔、仲間の北山修や杉田次郎の作った「戦争を知らない子供たち」
をつまらぬ曲として、一刀両断したそうである。
しかし、晩年になって「戦争を知らない子供たち」である団塊の世代が、戦後
日本社会によって、共同体意識のないバラバラの諸個人に分解され、救い
ようのない「孤立」「孤独」地獄に墜ちていること、存在の「淋しさ」とも言う
べき恐るべき不幸に気づいてしまったのかもしれない。
彼は、死という人類共通の共同性に回帰したかったのかもしれない。

あれこれ述べたが、覚悟の自決に敬意を表し、御冥福をお祈り申し上げる。

もうひとつは、戸塚ヨットスクールの女子学生飛び降り自殺事件である。
入寮して直後のことだったらしいが、戸塚さんに同情を申し上げたい。

新聞やテレビは、戸塚氏をまたやらかしたとでも言うように、非難めいた
論調でインタビューをしていたが、私は戸塚さんの悲しみと怒りの表情が
よく理解できた。
同じ思いだったと言ってもいい。

戸塚さんがやろうとしたのは、親たちが皆、放り出し、放棄した子供たちの
「再生」である。
うまくいくときもあれば、いかないときもある。
彼は六割くらいがうまくいっただけだと、以前、正直に話してくれた。

戸塚氏は、自ら「損する」を承知で、覚悟を決めて、その荒れ果てた日本
の家族状況と子供たちを引き受けようとしたのである。

今、私達草莽がやろうとしているのも、荒れ果て、放り出された世界最古
の歴史と伝統を誇る祖国日本の「再生」ではないのか。

少女の死は、それまでの少女の人生の集約だった。
悲しいことだが、少女の死の瞬間まで、日本社会と大人と少女の家族と、
学校も、友人も、いずれも少女に生きる希望を与えられなかった。

少女は自分の命を捨てたが、生きていた頃の周りのすべても拒否して
捨てたのである。
自分ひとりの命ではないということも戦後教育は教えなかった。

少女はとてつもなく淋しかったのだろう。
周りのすべてからも、過去現在未来という時間からも彼女は恐ろしく孤立
していたのだ。

戸塚氏は、そんな孤独地獄にいる危ない少女に、これから生きる気力と
希望を与えようとしていた。
その矢先のことだった。
私は断言したい。
少女の死は、戸塚氏のせいではない。

しかし、どんなときでも若い少年少女の死は、痛ましく悲しい。
少女の安らかな冥福を祈りたい。

呼びかける秋のように、人は一度だけ振り向き、去っていく。
十月はそんな月だった。

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