【巻頭エッセイ】

「三種の神器の精神から消えたもの」

                 日本文化チャンネル桜代表 水島 総

地下鉄で移動するとき、一人酒を飲るとき等、短歌や俳句の歳時記本
をよく読む。
都会の雑踏の様々な音と匂いに染まっていた身体に、ふっと風が吹き
込むように、人と自然が調和する世界が現出する。

自然の営みと人の命の営み、その喜びや哀しみが短い短詩形で表現
される。
表現と言っても、その表し方は「歌」であり、無数の日本の詩人たちは、
人の世の来し方行く末の無常、哀しみ、喜びを「歌う」のである。
「主張」し「論ずる」のではない。
歌うことで、互いの心の奥に通底している「命の風光」といったものを
共に、感応し合い、共有し合うのである。

日本の皇室が、どんな時代の政治体制の変化にあっても変わらず続い
て来たのは、主義主張という思想で支えられたものでは無かったからだ。
主義主張で説明し切れる存在でも無かったからだ。

歴代の天皇や皇族方が例外なく和歌を詠まれる詩人であったことは、
皇室存在の根本的なあり方を象徴している。
天皇と皇室が私たち日本民族の上に君臨して来たのは、主義主張でも
武力でもない、私たち日本人の基底にある大自然と繋がった民族感情
を自ら体現されて来たからではなかったか。

武士の武力や公家の主義主張が、天皇と皇室を支えたのではない。
「歌心」が日本民族を繋ぎ、皇室を支えたのである。
万葉の防人をはじめとして、日本庶民は、自分たちのいのちの営みと
天皇存在が、自然と感応するが如く、深く通底し、響き合っているのを
実感していた。
だからこそ、世界最古の国の最古の皇室が続いて来たのだ。

以前にも書いたが、旧軍の兵隊たちによく歌われた軍歌「戦友」は、
アメリカ占領軍の軍人たちがこれを聞いたとき、反戦歌だと思ったそう
である。


「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
        赤い夕陽に照らされて 戦友は野末の石の下」


戦友の死を嘆き、悲しみながら、ひたすら涙する。
自決した評論家村上一郎氏が指摘していたが、この日本兵の「涙」
こそ、世界最強と言われた日本兵の強さの源泉なのである。

この涙は、泣き虫、臆病者の涙ではない。
過酷な運命の必然を引き受け、人の世の避け難い生死を雄々しく
引き受ける、勇者の涙である。


「かくすれば かくなるものと知りながら
             やむにやまれぬ大和魂」 (吉田松陰)


この心を持つ者だけが流す涙である。
憂国者気取りの大言壮語よりも、人の世のはかなさ、悲しみを直視し、
それを深く嘆くことの出来る「歌心」こそが、日本兵の精強さを形造って
いたのだ。

皇室に伝えられている「三種の神器」の意味には、様々諸説があるが、
一般的に「鏡」は誠、「玉」は慈愛、「剣」は勇と言われ、これが日本人
の精神、大和魂だと言われている。

この三つの心を結び、体現しているのが天皇であり、皇室である。
そして、それは日本民族共通の「歌心」によって表現され、現実化され
るのである。

そういう意味で、敗戦後、アメリカ占領軍(GHQ)が、皇室の意義の内、
「剣」の部分の意義を削って、日本国民に宣伝活動したのは、国民意識
の形成に深刻な打撃を与えた。
敵ながら天晴れというやつである。

マスメディアから、昭和四十年前半までは流れていた「軍歌」が消え、
放送されなくなった。
愛や誠は歌われても、勇を歌う歌が、私たち日本国民の間から消えた
のである。

だからというわけではないが、私たち日本文化チャンネル桜では、本年
八月十四日夜八時から三時間、西部邁先生他のチャンネル桜出演者
による「軍歌特集」番組を放送する。
御期待いただきたい。 

映画「南京の真実」の製作をしていて、つくづく身にしみて感ずるのは、
大東亜戦争を戦われた無数の日本人兵士たちの偉さ、凄さである。
とりわけ、三種の神器の精神を体現した日本の草の根の兵隊たちで
ある。
アメリカ国防総省が旧日本軍の下士官、兵隊を世界一と褒め、栗林
中将や牛島中将を除けば、将軍たちは愚将ばかりと評したのも、
一理あるのかと一瞬考えてしまうのである(私はそうは思っていないが)。

将軍、将校たちの頭が考える理屈や理論では無く、防人としての運命を
黙々として引き受け、日本の自然と一体化した皇室(天皇-大君)の
「辺にこそ死なめ」を実践していった我が祖先たちの英雄精神に、
ひたすら頭が下がるのである。

間もなく、今年も八月十五日が来る。
国の為にその尊い命を捧げられた英霊の御霊に崇敬と感謝の念を表す
ためにも、静かな八月十五日にしたいものである。

我がチャンネル桜は、毎年、午前六時の靖國神社開門から昼の国民
集会、午後の参拝風景等を取材し、報道して来た。
ところが、昨年夕刻、私たちが取材を終えて事務所に引き上げた後、
「反天蓮」なる左翼団体が、靖國神社付近をデモ行進し、あろうことか
天皇陛下の御写真に骸骨人形を取り付けて掲げたり、御写真にナチス
のハーケンクロイツを描いたプラカードなどを掲げて行進したのである。
これに激高した人々がデモ隊に突進し、大騒ぎとなった。

まず、言わなければならないのは、八月十五日の靖國神社は境内、
周辺とも静寂であるべきだということだ。

もう一つ、いくら思想信条の異なる左翼のデモであっても、また、例え
「天皇制反対」のデモであっても、デモ行進という思想信条の表現は
認められるべきだという事である。
そうでなければ、私たちの行う街宣活動やデモ行進も、時の政府の
方針によって禁止されることを認めることになる。
左翼スターリン主義と右翼ファシズムが西欧近代主義に根差した
同根思想であることは、戦後の日本を見れば明らかである。

しかし、デモ行進するのは良いとしても、こういう現在の法律や公安条例
等を超えた存在、天皇陛下と皇室に対して、不敬極まりない人形や
御写真を主義主張表明の為に使用することは絶対許されない。

私が「占領時一時的緊急法」と考えている日本国憲法ですら、天皇存在
は「日本国民統合の象徴」とされている。
まして、天皇陛下は、名誉棄損で訴えを起こすような日本国民としての
「人権」など無い存在である。

先日、警視庁の警備関係者に「申し入れ」を行ったとき、
天皇陛下に対する無礼極まりない表現物の取り締まりに言及した。
警備関係者は公安条例に取り締まる法律が無いことを述べたので、
治安を守る警察官としてまことに歯がゆく残念であろう。

しかし、法律が整備されていないため、国家権力の行使機関が
天皇陛下を御守り出来ないならば、私たち国民が天皇陛下の名誉と
尊厳を御守りするしかないだろう。

もし、本年、再び左翼デモがそのような不敬行為を為すならば、私は
先頭に立ってこれを実力で阻止すべく行動する、逮捕されるなら逮捕
されても構わない。

私たちは現代の法律を超えた日本の国体の精神にそった形で行動
したいと考えている。
だから、現在の法律体系と衝突する時もあるかもしれないが、それは
仕方ない。

警察が、現代の法律に従って治安を維持し、それを順守させようと
する職務には敬意を表するが、それを超えたそれ以上の価値を私は
皇室に置いている。
だから、それぞれの立場で、国の為に尽くしましょうと述べた。

とにかく、靖國神社の英霊の皆様の為に、静寂を実現するのが
何よりも大事なことである。
左右対立の「喧嘩祭り」にしては絶対ならない。
そのために、今、様々な具体的方策をあらゆる形で模索し続けている。

その八月十五日に、菅直人首相は韓国への謝罪談話を出そうと画策し、
私たち「頑張れ日本!全国行動委員会」は、今週も連日、議員会館前、
首相官邸前、民主党本部前で抗議活動を行い、私も抗議演説を行った。
暑い中、黙々とビラを配り、旗を掲げて、参加していただいた草莽の
同志の皆さんには敬意を表したい。

今週は、この抗議活動だけではなく、朝鮮総連の下部組織・朝鮮高級
学校に対する「高校無償化」適用推進に対しても、文部科学省前で抗議
活動を行った。

朝鮮総連はテロリスト国家北朝鮮の日本工作機関であり、警察庁や
公安調査庁から破壊活動防止法適用の対象として調査されている団体
である。
そんなテロ情報機関の下部組織である朝鮮高校に、日本政府自ら資金
援助をすることは、テロリスト支援政府と言われても仕方ない恥知らず
の行為である。

番組でも紹介したが、朝鮮高校で教えられている『現代朝鮮歴史』と言う
「教科書」は、金日成、金正日父子礼賛と歴史の捏造に溢れ、特に、
拉致問題 については日本政府が騒いでいるだけと解決済みを主張し、
先日来日した元北朝鮮工作員・金賢姫の起こした大韓航空機爆破テロ
事件を韓国政府のでっち上げと記述している。

政府が拉致問題担当大臣を設置し、問題解決の為に招待した元北朝鮮
工作員を真っ向否定しているような「教科書」が使われている。
こういう北朝鮮洗脳工作場所に、政府、文科省が国民の血税を提供し、
援助しようと言うのである。

税金の無駄遣いどころか、税金の泥棒である。
文字通り、売国行為であり、国民への裏切りであり、税金の不正使用で
あり、とりわけ拉致被害家族への許し難い裏切りである。

来週水曜日、八月十一日、昼過ぎ、私たちは大々的な文科省抗議の
国民行動を実行する。
是非、多くの皆さんで怒りの声を挙げ、文科省の暴走を阻止したいと
考えている。

もし、これを政府が実行したなら、私たちは行政訴訟も辞さない覚悟である。

今年は例年にない猛暑だそうだが、それ以上に民主党政府の御蔭で
とんでもない暑苦しい夏になったようである。


   乳母車 夏の怒涛に よこむきに    橋本多佳子
一覧へ戻る