【巻頭エッセイ】

「あの日……」

                 日本文化チャンネル桜代表 水島 総

本日八月二十一日は、私と三十数年一緒に仕事をして来た
都竹廣明が二年前に亡くなった日である。
肺がんで五十八歳の若さだった。

私がテレビドラマのチーフ助監督をしていた頃、知人の紹介で助監督の
フォースという形で部下となった。
それ以来、亡くなる直前まで、チャンネル桜の仕事を一緒にしてくれた。
渋谷の事務所で顔を合わせた方も多いと思う。

三十数年前の都竹は、肩までの長髪で、大きな目玉をぎょろぎょろさせ、
声も大きく、大酒飲みで顔を真っ赤にさせている事が多かったから、
皆から「金太郎」または「金ちゃん」というあだ名で呼ばれていた。

この三十数年間で、髪の毛はすっかり消え失せ、ほぼスキンヘッドになり、
立派な白髪混じりの口髭を生やしていたから、背広姿で私と各所に出か
けると、都竹が私より年上で、「社長」と間違われることもあった。
「いえいえ、私は」と言って否定するのだが、「お前、何だか嬉しそうな顔
してたぞ」と、冷やかしたこともあった。

私が製作、監督した映画やテレビドラマのほとんどを都竹がプロデュー
サーとして担当した。
年は一つ年下の弟分だったが、私のような独断専行の男に、死ぬまで
よくついて来てくれた。

都竹は学生時代、中央大学で赤ヘルメットをかぶり、丸太を担いで防衛
庁に突入し、逮捕されたこともあった「猛者」だと聞いていた。
しかし、付き合ってみると純情で正義感の強い、まことに心優しい男だった。
その後、色々葛藤しながら思想的に変わっていったのだろうが、正義感や
正直さ、涙もろいところは変わらなかった。

チャンネル桜の「社風」そのものみたいな男だった。

チャンネル桜の創立期に撮影されたものは、ほとんど彼の演出、撮影、
編集作品である。
先日の八月十四日、久しぶりに放送された靖国英霊の遺書朗読
「英霊の言乃葉」は、都竹の演出、編集した番組である。

番組に出てくる靖国神社の桜も彼が撮影したものだ。
その時、私も撮影に立ち合っていたが、ふと、都竹が立ち止まって桜の
木々を見上げ、「……ほんと、きれいですね……」と言い、遠い眼差しに
なっていた横顔を思い出す。

あの時、桜を見ながら何を思っていたのだろうか。

散華された英霊の写真と朗読を聞きながら、彼もまた
桜の花が散るように「戦死」したのだと思った。
都竹はどんな疲労困憊の時でも、絶対に手抜きの仕事をしない男だった。
仕事面での誠実さと正直さについて、私の信頼は一度も揺るぐことは
無かった。

人と酒が大好きで、文字通り、誰からも好かれた。
酒を飲むと罪の無い大ボラ話をして、皆を喜ばせてくれた。
そんな時が一番幸せそうな顔をしていた。

衛星放送でチャンネル桜と一緒にフィリピンチャンネルをやっていた頃は、
フィリピンの女性スタッフから慕われて、色々相談相手になっていたが、
あるとき「グランドファーザー(おじいちゃん)みたい」と言われて、真剣に
がっくりしていた。

「いい奴」という言葉がまさに当てはまる男だった。
 
息を引き取る数日前、スタッフと一緒に見舞ったとき、律儀にベッドから
起き上がろうとしたので止めた。
痛み止めのモルヒネのせいなのだろうが、幻覚を見ると話していた。

「薬のせいの幻覚って分かっているんですよ、分かっているんですけど、
ベッドの周りに四人くらい人が立ってるんです。立ってうるさくおしゃべり
するんです。だから、うるさいって怒鳴るんです」

その日、新たに手に入れた靖国神社の病気平癒の御守りを渡した。
都竹は嬉しそうにベッド脇に吊るした。
しかし、多分もう長くないことを知っていたと思う。
どんな気持ちで御守りを吊るしていたか、今も胸が痛む。

その夜、一番仲の良かったスタッフの携帯に電話がかかり、
「ああ、焼き鳥で一杯飲みたいよお」と叫ぶように言ったそうである。
その機会は訪れなかった。

思い起こすと、本当に数多くの「いい奴」がこの世を旅立って行った。

笑顔で手を振りながら、ちょっと淋しそうに去って行く姿が思い浮かぶ。

靖国神社二百数十万柱の英霊も、きっとそうだったのだろうと改めて思う。

そして、失ったものの余りの大きさに、私たちは胸の奥で、
秘かにおののくのである。


  夕焼けも 海の匂いも 消えしとき        久保田万太郎   


  蟻をみて ものほろぶことを おもひをる     下村槐太

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