【巻頭エッセイ】

「尖閣諸島遠征記(三)」

                 日本文化チャンネル桜代表 水島 総


四、出航から尖閣まで

早朝四時、夜が明けぬ薄闇の石垣島登野城漁港に、
第一桜丸は停泊していた。
生暖かい夜風に、第一桜丸の日の丸と大漁旗がはためいている。

今回の尖閣行きの第一桜丸船長は、
吉本さんという四十四歳の大男である。
私を一回り大きくした百二十キロあまりの身体の海人(うみんちゅ)で、
無口だが親切で優しい漁師だ。
もう一人の漁船員の直也君は十七歳、中学を卒業して、
直ぐに漁師になった生粋の石垣漁師だ。
二人に挨拶して船に乗り込む。

四時半、海上保安官四人がやって来て、書類を中心にした臨検を受ける。
皆、とてもなごやかな表情と態度だ。
「船酔いは大丈夫ですか」と笑顔で私に聞く。 「向こうに行くとゲロを吐いて三キロくらい痩せるらしいので
 楽しみにしてますよ、どうもありがとう」と答える。
「本当に気をつけて行って来て下さい」と言って、
約十五分間で臨検が終了。

松浦さんや葛城さん、産経の塩瀬さんも、皆、第一桜丸に乗り込み、
集合場所の石垣新栄漁港に移動する。
葛城さんやうちのカメラマンの北村は、別の漁船御幸丸に乗って、
二十カイリまで随行し、私たちを撮影することになっている。

夜が明け始め、港に日の丸をはためかせた漁船十隻が集結した。
漁師たちは、直ぐ出掛けようと言ったが、
まだ暗くて「出撃」の様子が撮影できないので、少し出発を遅らせてもらう。

五時半、ついに石垣日の丸漁船団が一斉に出発した。
みんなから「岸壁の母」とからかわれた松浦さんが日の丸を持って、
三木防衛協会会長と見送ってくれる。
地元のメディアも何社か取材に来て、カメラを回している。

先頭を切るのは大漁旗と日の丸を掲げた我が第一桜丸である。
夜明けの港を出航していく漁船団の姿は感動的だった。
特に全ての漁船が日の丸を掲げている姿には、初めて海上自衛隊の
観艦式で見た時と同じく、ちょっと胸が詰まった。
日の丸の持っている独特の力が私たちの胸を打つのだ。

潜水漁、一本釣り、はえ縄漁の三種の漁船十隻が波を蹴立て進む中、
朝日が昇り始め、漁船団を照らし始めた。
波のきらめく逆光の海を進む漁船の姿も美しい。
何と大きく清らかな日本の風景なのか。
左手に竹富島、小浜島を眺めて過ぎ、西表島にも別れを告げ、
東シナ海の外洋へと漁船団は進んで行く。

波間を進む漁船団の個々の船を眺めていると、
ああ、これは人間の姿の象徴でもあるんだなと思った。
その孤独で健気な姿に、戦艦大和で特攻出撃した乗組員の気持ちを、
私はほんの僅か垣間見た気がした。
祖国の自然、家族、祖先を想えば、日本人は静かに死地に赴けると、
はっきり了解出来たからだ。

日の丸を掲げ、波間を進む漁船団の個々の船は、
荒波の人生を歩む人の姿に重ね合わされて、私の心を打った。
個々の船ごとに独自の意志と生活を持ちながら、
「船団」として、運命を共に引き受けようとする共同意識も体感できた。
同時に、もし、それが確実な死の未来であっても、
人はその運命を静かに引き受けられる、これも実感できた。

かつての帝国海軍の将兵たちは、連合艦隊の滅亡を予感しながらも、
黙々と太平洋の海原に出撃し散って行った。
「海ゆかば」が私たちの心胆を震わせるのは、戦争の悲惨と偉大さを、
静かに引き受ける誇りと矜持であり、私心なき清らかな祈りと潔さである。
また、悲劇的な運命をも引き受ける偉大な単純と諦観である。
古くは平家物語の平氏の人々も、壇ノ浦の最後の戦いを
そのような運命の死として捉えていたのではないか。

対照的なのは、私の好きな若山牧水の名歌
「白鳥は悲しからずや 海の青 空の青にも染まずただよふ」だ。
近代主義と日本の伝統との狭間で苦悩する近代日本の悲哀を表し、
三島由紀夫が『潮騒』で描いたおおらかな万葉ぶりの世界との
対比をなしている。
今回、尖閣諸島行きの体験で、私は『潮騒』の世界を
少し体感できた気がした。

同時に、私たちが今回の東日本大震災で学ぶべきものも、
見つけられた気もした。
一言でいえば、我が国の自然と運命をおおらかに雄々しく引き受け、
殉じる覚悟と諦観である。

私たち日本民族は、古くから様々な大災害を経験しながら、
この地震火山津波列島を捨てず、離れず、生き続けてきた。
この日本と日本列島に生まれた運命、その喜びと悲しみ、全てを含めて、
私たちはしっかり肝に銘ずるべきだろう。

有り体に言えば、私たち日本人は勤勉で真面目だが、
死ぬときは死ぬんだから仕方ないと諦めるのである。
だから、大自然がもたらす大天災には、泣いて涙も流すが、
これも運命だと諦める。
誰が悪い彼が悪いなどと、犯人捜しの人民裁判もどきを
しなかったのである。
むしろ、自分たちの心や精神の堕落が大災害、天災をもたらしたと
反省したのである。

しかし、戦後六十六年、日本らしくない「市民」ばかりが増えた。
大東亜戦争も、沖縄戦も、原爆投下も、日本国民はただの
戦争「犠牲者」に卑小化され、アジア独立への偉大な民族的悲劇を担った
英雄的精神は何処かに放り出されたままだ。
個々の人間ではどうにもならぬ人智を超えた運命がある、という
当たり前の民族の知恵も、戦後日本人の多くは理解出来なくなっている。
しかし、石垣の漁師たちは、大自然と交わる経験と
伝承された祖先の知恵から、それを身体で知っている。

二十海里付近で、葛城さんの乗った御幸丸が近づいて来た。
彼女が「船酔い、大丈夫ですかあ?」と聞く。
エンジン音で中々聞き取れず、「よく聞こえないよお」と答えると、
「お気をつけて行ってきてくださあい」と手を振ってくれた。
後で聞いたが、この付近で大きな海亀を見たそうだ。
カメラにも撮影されていた。

別に命を賭けた出漁では無いが、彼女の善良で明るい笑顔には
本当に元気づけられ励まされた。
ゲーテが「女性的なるものは人を天の高みに昇らせる」との言葉を
小説の中で書いていたが、
つまり、豚もおだてりゃ木に登るという事だなと納得した。

尖閣漁船団から離脱し、石垣漁港に戻っていく御幸丸の姿が
どんどん遠くなっていく。
その姿もまた、心地よい感傷を生んだが、
一段とスピードを上げた第一桜丸が、風と一緒にそれを吹っ飛ばしていく。

第一桜丸は他の漁船よりスピードがあるので、先に尖閣諸島に行き、
各島の風景を撮影しようと先行したのだ。
約二十五ノットの速さに尾いてこられるのは、
砂川さんの乗った幸徳丸だけだ。
モーターボートのような白い航跡を残して尖閣を目指していく。

尾いて来たのはもう一隻、海上保安庁の巡視船である。
およそ二キロくらいだろうか、どんなにスピードを上げても緩めても、
全く同じ距離を保って尾いて来る。
さすがにプロだと感心するが、もっと近づいてくれると、
挨拶の一つも出来て撮影も出来るのにと残念な気分だ。

途中、幸徳丸が停まってしまったので、故障かとUターンして近づくと、
無線連絡で残りの漁船が遅れているので待ってくれとのこと、
三十分ほどゆらゆらと波間に漂う。
普通だと、これで気分が悪くなるらしいが、私には全く影響が無い。
却って良い気分で海を楽しんでいる。

しかし、日差しの強さは半端では無い。
文字通り、皮膚をじりじり焼いているのが実感できる。
船上では日差しを遮るものがなく、船室は蒸し風呂で、
とても中には居られない。
帽子やサングラスは、一般人には必須だ。
盛んに水を飲み、腕や顔にシーブリーズの化粧水を噴霧して冷やす。

巡視船は相変わらず離れて私たちを監視している。

腹がへってきて何か食べたいが、吉本船長が何も言わないので、
「漁船員見習い」としては、船室にはパンやおにぎりがあったなあと
思いながら、水を飲み、じっと我慢する。
腹の虫がしきりと鳴く。
砂川さんたちの船では、もう釣りを始めて結構大きな魚を釣り上げている。
 
遅れて来た船が揃ったところで、再び、尖閣に向けて出発する。
第一桜丸は再び、先行して進む。
尾いて来たのは海保の巡視船のみだ。

次第にやや波が荒くなるが、心地よさは変わらない。
舳先に座って撮影する。

十時半を過ぎた頃、尖閣諸島が視えてきた。
日焼けした十七歳の漁師直也君が、指さして「尖閣です」と教えてくれた。


「尖閣諸島遠征記(三)」了。


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次回はいよいよ、「尖閣諸島遠征記」(四)
「姿を現した防人の島 尖閣諸島」です。

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※ 「尖閣諸島遠征記」(一)(二)は、「桜・ニュース・ダイジェスト」
  バックナンバー(第244・245号)にてご覧いただけます。
  http://archive.mag2.com/0000210954/index.html


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