「究極の選択を迫られる日本人」

               『言志』編集長  水島 総

以前、「究極の選択」という言葉が流行ったことがあった。
選び難い両者のどちらかをどうしても選ばなくてはならないという
難問奇問を出して楽しむ趣向だが、現実の世の中でも、こういう
事態はかなり頻繁に起きている。
つまり、納得もできなければ割り切れもしない状況を、そう選択せ
ざるをえず、苦い思いで引き受けているのが、ほとんどの人の人生
だろう。

指摘しておくべきは、究極の選択という設問の本質が、
「当事者意識」だということだ。
究極の選択は一切の例外を認めない。
「両方とも駄目だ」という答えを認めない。
両者とも駄目なことはわかっていても、当事者として、答えを逃げ
ることを許さない。

いささか、下品で不謹慎と思われる例だが、3年と9ヶ月前、民主党
が政権を奪取する衆院選前のことだ。
私は政治における究極の選択として、民主党か自民党かの選択を
「梅毒を選ぶか、淋病を選ぶか」だと述べて、一部の視聴者から
おしかりを受けた。
しかし、私は本質をついた例だと、今も考えている。

両方とも駄目だというのは簡単だ。
その通りで、「正論」だからだ。
確かに、両方とも駄目なことを指摘するのも重要である。

しかし、それだけでは駄目なのである。
もし、この厄介な 民主主義制度を現実として認めるならば、理想
的な選択肢などほとんどないのは明らかであり、どちらかを現実に
選ばなくてはならないのである。

どちらも嫌だと選挙を拒否したら、結果として、どちらでもいい、
あるいは両方ともいいと、黙認することになる。
ある少数政党が議席には達しないだろうが、まともなことを言って
いるからそちらを選ぶというのも、よくよく考えなければならない。
その一票が死票となり、より劣悪な方に有利に働くとしたら、それ
は現実として「梅毒」を応援することになるからだ。
棄権という行為も同様である。
世間という現実はそういうものだ。

つまり、現実世界は、痛苦な「究極の選択」の連続なのであり、
「大人」はその現実を引き受け、生き続けなければならない。
変革はその惨めな現実を引き受け、体感することからやっと始まる。
泥沼の匍匐前進のように、じわりじわりと進むしかない。
保守というのはそういうものだし、その覚悟を持てるかが問われる。

本当に世界の現実を変えたいのなら、苦しい選択(戦いや葛藤)に
参加して、醜悪で冷酷無惨な現実を引き受けず、「批判」という名
の高見の見物に逃げてはならない。
第三者的な井戸端「評論家」になって、自分を愛国者だと自己満足
するだけでは駄目なのだ…そう私は自分自身に言い聞かせているし、
草の根日本国民にも呼びかけたいと思う。


<三島氏に分かり石原氏に分からなかった大義>


私が思想と行動の一致を考えるようになったのは、三島由紀夫氏の
影響が強い。
しかし、影響を受けたのは、そのイデオロギーではなく、陽明学的
な「知行合一」という姿勢に共感したものだ。

「知行合一」は、知ることと行動を一致させるという意味に止まら
ない。
むしろ、知と行は、一致させるべき対立概念ではなく、究極の
「当事者意識」の表現であり、知行は元来同じものなのである。
自己と知行は別々では無い。

以前にも引用したことがあるが、三島氏は石原慎太郎氏との対談で
行動の原理を以下のように述べている。


  三島 絶対、自己放棄に達しない思想といふのは卑しい思想だ。
  石原 身を守るということが? …ぼくは違ふと思ふ。
  三島 だけど君、人間が実際、決死の行動をするには、自分が
     一番大事にしてゐるものを投げ捨てるということでな
     きゃ、決死の行動はできないよ。君の行動原理からは
     決して行動は出てこないよ。

  (「月刊ペン」昭和44年11月号「守るべきものの価値」より)


ここで語られているのは、命がけで行動すべきと言っているだけで
はない。
世界に対する行動の「究極の選択」は当事者としての自己を放棄す
ることだと述べ、 自分と自分の命が「当事者」として、世界(空
間時間)の一部となって消滅することを選べと、主張しているので
ある。

「悠久の大義に殉ずる」とは、究極の当事者意識の行動である。
つまり、私と日本が対峙しているのではなく、私が日本(悠久の大
義)になり切ることなのである。

特攻隊員の姿はまさに「私が日本だ」という姿勢そのものであり、
さらに究極の存在は、日本そのものとなられて生きている
天皇陛下の存在である。
ここには私心など皆無であり、生きている日本が現前しているのだ。
このことを当時の石原氏には理解できなかったようだが、おそらく
今もそうだろう。

石原氏とはイデオロギー的には異なるが、実存主義者 J・P・サルト
ルの主張には、石原氏と共通したものがある。
サルトルの実存主義は、人間がその瞬間その瞬間に、絶えず決断し
ながら、自己を未来へ「投企する」のだと主張する。
石原氏の行動原理も同様である。
ここには常に自己(実存)が存在し、世界と対峙する構造となって
いる。
自己放棄といった発想はない。 

四十数年前、学生だった私はだいぶサルトルの影響を受けた。
しかし、では何を基準に決断するのか(サルトルはマルクス主義を
選んだ)と考えたとき、あるいは決断する「自己」と自己投企する
「世界」とは、本当に両者が「対峙」している関係なのかと考えた
時、私は完全に行き詰った。

そこで出会ったのが道元禅師の『正法眼蔵』だった。
禅の世界は一言でいえば、「わたしが無ければ、皆わたし」(鈴木
大拙の言葉)という世界である。

つまり、私対世界という構図のない究極の「当事者意識」の世界
なのである。
例外は一切認められない。
私たちが生きるということは永遠のごとき時間も果てもない宇宙
空間も、あるいは梅毒も淋病も私たち自身だと考える 「当事者」
の姿勢である。

もっと卑近に例えれば、私たちや私たち戦後日本社会は、さまざま
な形で精神的肉体的に「病んだ患者」なのであり、私たちは患者に
対峙する医者ではないということだ。
もし、俺は医者なのだと主張したい人は、自分自身が難病か不治の
病をわずらった医者だと想像すべきなのだ。

私の眼前には「究極の選択」としての戦後日本の悲惨な現実が荒涼
と広がっている。
しかし、この荒れ果てた戦後日本の姿は、私たち自身の姿である。
私たちは「病んだ患者」そのものであり戦後日本社会を体現する者
たちである。

戦後批判をする自分だけは真っ当な人間で、左翼が悪い、アメリカ
が悪い、GHQが悪いと批判しているだけではすまないのである。
医者のふりをしてあれこれ言う「評論家」より、大事なのは、
「病んだ患者」という当事者として、自身の現実をどう治癒し、健
康を回復していくか、現実的にどうするのか考え、行動をしていく
のが大事だということだ。

安倍内閣に対する保守を自称する人々の態度が問われるのもこの点
である。
私は自分のテレビ番組で、安倍内閣断固支持、TPP絶対反対を主張
し、今も主張し続け、それに沿った行動を続けている。
その考えに微塵も変化はない。

安倍総理も安倍内閣の政策も、戦後レジームからの脱却に直結する
ものを今打ち出しているわけではない。
私自身、危険や不満を感じる政策も数多い。

一例を挙げれば、安倍内閣発足の時に私は竹中平蔵氏の政権参加に
ついての危惧を総理に直接申し上げた。
総理は「政治なんですよ」と言って説明してくれた。
要は、政治世界は、真理を求める学問の世界ではなく、当事者とし
ての「究極の選択」をしなければならないということだった。

敗戦以来、わが国は国防安全保障をアメリカの全面的な従属下に置
かれている。
事実上の保護国状態にあると言ってもいい。
だから、私は安倍氏の説明を了解できた。
つまり、日本という米国の保護国にとって、政治選択の余地は、自
由な「あれかこれか」ではなく、米国の保護監視の下での「どれか」
でしかないのである。

あらためてこの厳然たる事実を私たちは自覚し、肝に銘じなければ
ならない。
その上で「戦後レジームからの脱却」を想像すれば、これがいかに
困難と苦難に満ちた道であるかも、自ずと理解できるだろう。
憲法を変えたり、国軍を創設するなどの法律や制度を変えるという
形でこと足りるものでは到底ない。
それらは「日本を取り戻す」ほんの第一歩に過ぎないのだ。

しかし、その主張と、それを主張する人物は、これまで戦後、米国
が主導してきたヤルタ・ポツダム体制から始まる世界戦略を否定し、
現在の米国のアジア戦略とも衝突する可能性がある。
従って、「戦後レジームからの脱却」の主張は、間違いなく危険視
され、それを主張する人物は危険人物とみなされるのだ。
米国だけではなく、中国や南北朝鮮からも危険視される。

安倍晋三という人物の基本には、この(善き)危険性がコアのよう
に基底に存在している。
だからこそ、伊藤貫氏がチャンネル桜の討論番組で指摘していたよ
うに、オバマ政権下の米国務省の幹部たちは、そろって安倍晋三を
危険人物とみなしているのである。
彼らの見方は、いい悪いは別として、判断としては正しい。

そして、現在、安倍総理は、日々、米国保護国下の状況の中、常に
現実的な究極の選択を迫られ、さまざまな決断をし続けている。
簡単に言えば、やりたくないこともやらなければならないというこ
とだ。


<「保護国の首相」が挑む真の独立>


私はいつもテレビ番組で、安倍内閣の運営について、欠陥部品だら
けの中古ポンコツ車の「仮免許」路上運転だと例えてきた。

戦後の日本政府がすべてそうだったように、安倍内閣も路上運転に
出た2回目の「仮免許」の運転者であり、横には運転をチェックして、
すぐに落第点を出して運転席から放り出そうとする怖い教官(米国)
がにらみをきかせている。
しかも、乗っている車は68年前に作られた中古のアメ車であり、エ
ンジンは欠陥部品だらけの米国製「日本国憲法」エンジンだ。

そのほかの装備品も、公明党、親中派自民党議員といった欠陥部品
だらけのポンコツ車で、いつかは自前の国産エンジンに取り換え、
いつかは車体も国産に変え、1人で路上を運転できるよう「耐えが
たきを耐え」ながら、今日もすり切れたタイヤで、凍結したがけっ
ぷちの道を走行している…これが安倍内閣だというわけである。

米国従属下の保護国の首相が、その意に沿った政権運営をしていく
なら楽かもしれないが(野田民主党内閣はその典型だった)、安倍
総理のように戦後レジームからの脱却を少しでも進めようとするな
らば、ほとんど絶望的とも思えるわが国の状況に遭遇することと
なる。

GHQの対日占領政策以来、日本国内に築き上げられ、張り巡らされて
きた「戦後レジーム」は政界、財界、官界、労働界、教育界、マス
メディアなどなど、ありとあらゆる分野におよんでいる。
宗主国アメリカだけではなく、戦後レジーム利得者たちが跳梁跋扈
し、本来の「日本を取り戻す」ことに反対しているのである。

戦後レジームからの脱却は、言うは易し、行うは難しの最たるもの
であり、私が国民運動の「草莽崛起」を提唱するのは、戦後レジー
ムの利得者たちからでは、それが不可能だと考えるからだ。
日本草莽こそ、わずかな日本の希望である。

ただ、戦後68年、ありとあらゆる洗脳工作によって日本草莽は眠ら
され、ようやく目覚め始めたばかりである。
今の状況に限って言えばほとんど不可能に近いことである。

しかし、私たちは世界最古の歴史と伝統を継いできた日本民族の末
裔である。
だからこそ、たとえどんなに不可能に近いように見える道であって
も、日本民族の歴史と伝統の名誉と誇りにかけて、「戦後レジーム
からの脱却」は、実現されなければならない道である。

しかし、そういう困難な状況の中、安倍政権の外交政策に目覚まし
いものがある。
昨年末まで当然のものとして進んできた米中両国による東アジアの
共同管理体制戦略に、ものすごいくさびを打ち込み、両国の間に埋
もれて衰亡する日本ではないことを、わずか半年の間に実証してみ
せた。
6月に行われた習近平中国主席の米国訪問と米中首脳会談は、安倍
外交から生み出されたといっても過言ではないだろう。

安倍政権の中国包囲外交の「巧みさ」と「凄さ」は、戦後レジーム
からの脱却の第一歩となるものでありながら、米国にとっても都合
のいいことだ。
オバマ政権は、基本的には米中アジア共同管理体制の戦略を継続し
ているが、「元気になった」保護国日本の安倍政権が、中国の覇権
主義的拡張政策を抑止することは、米国にとって対中外交における
「日本カード」としてまことに好都合であるからだ。

米国は、安倍政権がTPPなどの米国の経済戦略や国防安全保障の隷
属状態下にあることを認めている限り日本の安倍政権を「親米政
権」と認知せざるを得ない。
本当の戦後レジームからの脱却は、この点から始まる。

安倍政権は、本質として、米国にとって極めて危険な「戦後レジー
ムからの脱却」を目指しながらも、現実として、米国の保護国とし
ての地位にある痛苦な現実を受け止め、その範囲内での政策の「究
極の選択」を繰り返しながら、「3歩前進、2歩後退」の歩みを進め
ている。

米国政府と、それを支える米国政府の背後にあるものからは、絶え
ず「警告」が安倍政権に発せられている。
5月末から6月初めにあった為替の円高反転や乱高下、株式市場の
乱高下は、5月末決算を理由にしたヘッジファンドの「警告」と
「脅し」だと言ってもいいだろう。
私は2ヶ月前くらいからそれを予想し、番組で伝えていたが、7月の
参院選挙の前に、もう一段の警告または脅し行為が行われる可能性
もある。

また、韓国を中心に米中両国が一体となって進めているいわゆる
「従軍慰安婦」などの歴史認識キャンペーンも「警告」と「脅し」
である。

そのような反「戦後レジームからの脱却」キャンペーンの中で、
極めて現実的な、あまりに現実的な「究極の選択」を強いられてい
るのが、現在の安倍内閣である。

このような状態が長く継続されれば、安倍内閣の本質自体も換骨奪
胎されかねない状況だと言えよう。
TPP交渉参加に始まり、最近の安倍政権の政策は、 私から見ても、
正しいとは言い難いものが多い。
竹中氏の新自由主義的グローバリズム臭ぷんぷんの政策が数多いの
も典型例だ。

私は、列島強靭化計画という第二の矢を、まず前面に押し出すのが、
政治的にも経済的にも極めて有効な成長戦略だと考えているが、米
国をはじめとするグローバリズムと対立する戦略でありそれを全面
的に貫くのは難しいかもしれない。

しかし、私ははっきり言おう。
それでも安倍内閣を支持し、盛り立てるべきであると。

「梅毒と淋病」の例でいえば、たとえ、安倍政権が「淋病」と視え
たとしても、「梅毒」を国民が選ばぬように、不満だらけであって
も安倍政権を「究極の選択」として選ぶべきである。

国難とも言える日本の危機に、日本国民がその当事者意識と責任感
を問われている。
評論家でいることはもはや許されない。

安倍政権が参院選に圧勝し、長期政権の道が切り開かれたとき、初
めて、戦後レジームからの脱却への希望の第一歩が踏み出せる。
そうでなければ、これまでの戦後保守のように、半永久的な米国保
護国の地位に甘んずることになる。

参院選は、日本国民の大人としての「当事者意識」が問われること
になる。

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