私たちの安倍政権支持は間違っていたのか


               『言志』編集長  水島 総


  二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が
  見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに
  空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーが
  いかに厖大であったかに唖然とする。これだけのエネルギ
  ーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたの
  ではないか。
  (三島由紀夫「私の中の25年」昭和45年7月7日付産経新聞)


  最も愛する者は、敗者である。そして苦しまねばならぬ。
        (トーマス・マン『トニオクレーゲル』より)


10月1日、安倍総理は来年4月の消費税3%アップ実施を発表した。
直後に行われたマスメディアの世論調査では、ほぼ賛否が半々だ
った。
安倍内閣支持率も60%前後で高支持率をそのまま保っている。

インターネットの普及で、マスメディアのアンケートの正確さが疑
われているから、にわかに断定はできないが、私にとって、この結
果は少々予想外だった。
もっと国民は消費税増税に失望し、怒りを表すかと思っていたから
だ。
増税を喜ぶ国民はいないはずだが、妙に国民はしんとして冷静で寛
大だった。

一体、これはいかなる意味を持っているのか。

寛大さとは多くを相手に期待していない「冷たさ」だと、曽野綾子
氏がどこかのエッセイで書いていたが、それを思い出した。
安倍政権はこの「深刻さ」を軽視すべきではない。

敗戦以来、日本国民はいつも希望し、裏切られ、それにもかかわら
ず、希望し続けて来た。
戦後日本の経済復興はその結果だった。
金もうけして贅沢したいという「欲望」よりも、真面目に正直に一
生懸命働いて、幸せを「希望」して生きてきたのだ。
インテリたちの勝手で自己満足的な西欧近代主義的「絶望」など、
するひまも発想もなかった。

それにしても、何という健気で愛しい、そして哀しい国民だろうか。
いまさらながらだが、戦後を一途に生きた父や母、祖父祖母、周り
に生きていた大人たちを思い出すとき、私は胸の奥に鈍い痛みを禁
じえない。
彼らは敗戦から占領へという絶望的な状況の下で、決して絶望しな
かった。
持ちこたえ、生き抜くことを選んだのだ。

以前、私は月刊誌『正論』で、日本の戦後体制の批判として、
昭和天皇の終戦の御詔勅をいただき、忠実にそれを実行しなかった
ことが、日本の戦後体制の腐敗堕落の原因だと述べた。
その思いは、今でも変わらない。

しかし、昭和の日本庶民は、ごく自然に、終戦の詔勅を実行して来
たのではないかと思う。
世界一勤勉で正直で、道徳心が高く、相互扶助の精神を保ち続け、
先帝陛下の詔勅通り、まさに「国体の精華」を発揚し続けてきたの
だ。

それに反して、これを忘れ、国家意識を喪失し、独立不羈の気概も
失せ、道義心を忘れ、金権腐敗に堕落したのは、わが国の政官財と、
文化人と呼ばれた「敗戦利得者」階層である。
戦後日本社会の新たなエリート層だった。

特に平成になると、アメリカの「年次要求」を典型とする「構造改
革」要求などの圧力に屈し、日本型(家族主義的)資本主義を放棄
して、グローバルスタンダード経済に足を踏み入れていった。
戦後日本社会は新たに根本的な崩壊過程に入っていったのである。
それは「日本」が溶解し、失われていく過程だった。

いわゆるグローバリズムの本質は、企業原理主義であり、企業活動
が、世界中、いつでも、どこでも、自由にできることを目指すもの
である。
言葉を変えれば、好きなように金もうけできる、無制限に近い自由
と仕組みを認めろというものだ。
マルクスではないが、この「自由」は、勝手に金もうけする自由で
あって、浅ましい金もうけ意識から自由になるのではない。

いい意味で、わが国の「談合」資本主義(労使協調路線も一種の談
合だ)の護送船団方式日本型資本主義は、皆が幸や不幸を共有しよ
うというものであり、グローバリズムとは仕組みも理念もまったく
相いれないものだった。

本格化したわが国のグローバリズム、「構造改革」路線の推進は、
企業形態や経済の仕組みを変えただけではない。
国民の意識面全般にわたって悪影響と変化を生み出した。

マネーゲームでのし上がった堀江某という人物が、金がすべてと豪
語して、自民党の国会議員候補となった「ホリエモン」現象はその
典型と言ってもいい。
この現象は、戦後日本社会の政官財とマスコミが行き着いた惨憺た
る「なれの果て」を十分に示して余りあるものだった。

文字通り、昭和の御代の終焉は、大東亜戦争敗北後も保ち続けてい
た終戦の詔勅の呼びかけであった「国体の精華」の発揚が打ち消さ
れ、それどころか、国体そのものが揺らぎ始めた時の始まりといっ
ていい。

護送船団方式の「日本を主語」とした企業理念は次第に放棄され、
経団連を先頭に、日本企業は「国際化」の美名の下、個別に弱肉
強食グローバリズム経済に乗り出していった。

しかし、その結果はいかなるものだったか。
パナソニックやソニーなどの凋落に示されているように、日本企業
は個別撃破され、無惨極まりない姿をさらしている。

なぜ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるまで日本型資本
主義が成長したのかを考えるべきだ。
労働組合や労働者がほとんど「階級」といった概念を意識しなくな
るほどの、家族的集団主義経営が行われたからである。

「構造改革」とともに開始されたグローバリズムの推進は、さまざ
まな要因があったにせよ、結局、日本はデフレ不況に陥り、その状
態を20年間続けることになった。

失われたのは経済的繁栄だけではない。
何よりも、昭和の時代にはそれでもまだ国民が共有していた共同体
意識が喪失されていった。
国民の多くに救いがたい孤立感と不安を生み出した。

冒頭の三島由紀夫のエッセイは、最後を次のように締めくくる。


  このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないか
  という感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わ
  りに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、
  富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るの
  であろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をき
  く気にもなれなくなっているのである。


「にもかかわらず」日本国民は、このデフレの20年間を、いや、い
つも、どの時代も、政治への希望と不信を繰り返しながら、しかし、
自信喪失とヤブの中のような漠然とした将来への不安を生きてきた
のである。

とりわけ、ある種の希望を国民が託して誕生した民主党政権の冷酷
偽善ぶりと驚くべき無能無責任にはほとほと失望した。
それは、民主党政権を自ら選んでしまった自己嫌悪と偽善の自覚で
あり、国民自らへの自信喪失にもつながっていた。

この内出血のような鈍い痛みと不安に耐えて来た国民の思いを、何
よりも安倍総理とそのスタッフは、「戦後レジーム」の根幹として、
真剣かつ真正面から受け止めるべきだ。


< 数ヶ月前からあった「増税大政翼賛会」の流れ >


無論、日本国民の多くは、具体的かつ現実的な存在である。
少子高齢化の進む中、税負担が増すだろうことなどもしっかり認識
している。
財政上、財源確保をしなければならないことも自覚している。

しかし、だからこそ、デフレを脱却し、景気をよくして、GDP自体を
大きくし、税収そのものを増やすことも主張されてきたのである。

今回の消費税増税はデフレからの脱却にとって、間違いなく悪影響
をおよぼす。
この認識は、増税推進派も反対派も一致している。

だからこそ、なぜデフレ真っ最中の今、実施されなければならない
のかとの疑問が呈されたのである。
1年、2年先に延期して、デフレ脱却後の増税でいいのではないかと、
ごく当たり前の主張がされてきたのである。

私たちの国民運動組織「頑張れ日本!全国行動委員会」も、ずっと
そう主張し、9月末ぎりぎりまで、首相官邸前の街宣活動やメール
や電話による要請活動などを全国的に展開してきた。
しかし、すでに、消費税増税への流れは明らかだった。

9月半ば過ぎから、マスメディアは次々に「消費税増税の実施決定」
の報を流し始めたが、これは増税推進派の財務省主導ではなく、む
しろ、官邸主導のアドバルーンとしてリークされたように思われる。

もともと、臨時国会開催が10月の半ば過ぎと決定され、増税延期法
案提出の動きなど皆無だったことに加え、増税へのさまざまな道筋
が首相官邸主導でつくり出されていたこと、首相に近い政治家や議
員たちから「増税が決定的」との情報が流れてきたこと、財務省と
官邸の攻防が復興税の前倒しの可否になっていることなどから、ほ
ぼ「増税決定」は明らかだった。

今回の消費税増税の流れにおいては、10月1日の決定までの数ヶ月前
から、実はその推進の中心に、安倍―麻生ラインがあり、ほとんど
の政治家がその流れに従い、それに財務省、経団連、マスメディア、
そして米国の賛同、支援、容認の包囲網があり、加えて、デフレ脱
却を喜ばぬ中国や韓国からの推進工作もあった。

まさに消費税増税「大政翼賛会」が、生まれたというのが現実だっ
た。
私たちの増税反対運動は、そういう意味で、非常に孤立した戦いを
強いられていたのである。

消費税増税反対の呼びかけと声の高まりは、10月1日の発表に向け
て、次第に盛り上がっていったが、反対運動を展開する中、私は戦
術的な誤りを犯した。
それは、運動の拡大と盛り上げのために、一種の「虚構」を黙認す
る形をとってしまったことだ。

反対運動を共に戦う人々の中には、安倍総理を信じ、信じたいとい
う切ない願望から、反増税の安倍総理vs.増税推進派の財務省(木
下次官)の戦いという「虚構」を設定し、必死に戦う人々がいた。
私は頑張っている彼らに一種のシンパシーを抱いていたが、こうい
う虚構の構図を掲げ、国民大衆を引っ張っていいのかという疑問を
抱いていた。

しかし、増税阻止のために、私はその「虚構」を容認してしまった。
つまり、中国共産党がやっているような「目的のためには(プロパ
ガンダ)手段を選ばない」という手法を容認してしまったのだった。 

草莽国民に真実を知らせぬまま、戦いの場に引き出すことは許され
ない。
そのようにこれまで考え、実行してきたのにもかかわらずだ。

それでも、私は彼らを傷つけぬ形で、何とかつらい現実を知らせた
いと考えた。
戦況が圧倒的に不利でも、やらなければならぬ戦いはある。
それが私たち草莽の戦いである。

しかし、消費税増税反対の戦いが、今、圧倒的に不利な状況である
ことを、私がチャンネル桜で伝えたとき、極めて感情的な反発が起
きた。 

確かに、一生懸命、増税反対運動をしている人々にとって、敵だと
想定した財務省事務次官・木下氏と、自分たちが味方しているはず
の安倍総理が戦っているのではなく、共に増税側の仲間であるとい
う厳しい「事実」は認めがたく、許しがたい現実だったのだろう。
私だけでなく、産経新聞の田村秀男特別記者なども、正直に事実と
現実を述べて、「戦いに水をさされた」というヒステリックな非難
を浴びた。

この現象は、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で指摘した、
戦後日本の徹底的な大衆社会化現象そのものであり、自分の姿を客
観視できず、すべてを何者かの責任として押し付ける「大衆」の存
在について、あらためて自覚させられた。

しかし、私たちは「大衆」ではない。
日本を主語とした「日本草莽」なのだ。
草莽崛起の国民運動は、だから、「目的のために手段(嘘)を正当
化してはならない」のであり、これが原点である。

私はチャンネル桜の視聴者に、虚構(デマ)を半ば容認、黙認して
しまったことを謝罪した。
私は戦後日本社会の大衆アジテーターに堕す寸前で、踏み止まれた
のだ。


< アベノミクスへの幻想は打ち砕かれた >


10月1日、もしかしたら…という多くの人々の希望も空しく、安倍総
理は来年4月の消費税増税決定を発表した。
「戦後レジームからの脱却」を唱え、デフレ脱却、危機突破「救国」
内閣として「日本を取り戻す」と高らかに宣言した安倍晋三総理が、
消費税増税を決断したのだった。

この決定の意味は極めて深刻である。
経済面だけではなく、これからのわが国のあり方と行方を予想させ
るものだからだ。

少し乱暴な言い方になるが、アベノミクスという経済政策は、第1の
矢「リフレ経済政策」、第2の矢「ケインズ的経済政策」、第3の矢
「新自由主義経済政策」といった、互いに相容れぬような矛盾をは
らんだばらばらの「矢」を同時に推進しようとするものだった。

政権発足時は、第1の矢と第2の矢が優先され、野田内閣と白川日銀
総裁時代まで続いて来た円高、株安が著しく改善された。
まるで、デフレ脱却への道が切りひらかれたかのように思われた。
私たちは、さらに、デフレ脱却から日本復活、戦後体制からの脱却
までも、視野に入り始めたのかと「夢想」したのだった。

しかし、流れは次第に変化し、第3の矢が主流となり始めた。
それが今回の消費税増税である。

束の間の夢は簡単に打ち砕かれた。
私たちは甘い幻想は捨て、再び、大東亜戦争敗戦以来68年間で強固
に築き上げられてきた戦後体制の過酷な現実と対峙しなければなら
ない。

はっきり言えるのは、この決定の方向は、新自由主義的グローバリ
ズムであり、「小さな政府論」であるということだ。
第1、第2の矢とは、真逆のベクトルが働くことになる。
同時に、これは年末の法人税減税やTPP交渉及び妥結推進へと連動し
ている。

深刻なのは、この決定が国柄(国体)の破壊への道筋に通じている
ことである。
つまり、敗戦後の日本社会で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が
行った日本解体工作が、ついに完成過程に入った現象として、今回
の増税決定を考えるべきだということだ。

このまま行けば、国体破壊がいよいよ進められることになる。
この視点で、安倍総理の靖国神社参拝の可否を見るべきなのだ。

「戦後レジームの脱却」と「日本を取り戻す」という公約で権力の
座に就いた安倍総理が、それとはまったく方向の異なる新自由主義
グローバリズムの方向に大きく舵を取り、彼の考える「戦後レジー
ムの脱却」が、皮肉なことに、新たな対米従属戦後体制の確立に向
かおうとしているのは、わが国の戦後史における「歴史の悲劇」で
あると同時に、「歴史の茶番」でもある。

私たちはこの戦後レジームと戦後政治家の「絶望的状況」を正面か
ら受け止め、嘆いたり、怒ったり、絶望するだけではなく、これを
日本の草の根(草莽)の民の力で、日本を取り戻すため、戦後体制
の打破に向けて、立ち上がらなければならない。

同時に、私たちは政治が日本と日本国民の生活に直結する具体的現
実でもあることも忘れてはいけない。
よく、「人生は最上級で語るのではなく、比較級で語られるべきも
のだ」と言われるが、政治もまた、同様である。

私たち日本草莽は、奇跡のような安倍政権誕生を実現させた。
それはまったく間違っていなかったと断言できる。
あの時、この政権しか日本解体阻止の方策はなかった。

民主党政権に代わった安倍政権は、これまでの政権に比べ、経済状
態の劇的な改善をはじめ、外交安全保障の分野でも著しい成果を上
げている。
そして、国会の絶対的な多数を握った自民党の中に、安倍総理に代
わりうる人物はいない。

その安倍総理が日本解体への道を一歩一歩、歩み出そうとしている
のである。

しかし、もし、安倍政権の交代が起きても、間違いなく、現政権よ
り確実に日本解体が進み、さらなる日本の劣化が進むのも明らかだ。
自民党以上の野党もいないし、安倍総理以上の人材もいないという
冷徹で痛苦な現実を、私たちは真正面から受け止めなければならな
い。

これが現実である。
この過酷なジレンマが、戦後レジームの現実である。

このジレンマは、私たち戦後日本国民自身が生み出したものでもあ
る。
私たちはその結果と責任の一端を担わなくてはならない。

日本草莽は、この過酷な現実から目をそらすべきではないし、やっ
ぱり安倍はダメだった、安倍にだまされたなどと個人的に「片付け
」、非難するだけでは「日本は取り戻せない」。

現実の日本は悪しき方向に動きつつある。
これを私たちは止めなければならない。
当分の間、国政選挙が行われない状況を考えれば、具体的には、私
たちは大きな国民世論を喚起し、安倍政権と自民党国会議員たちが、
国政を間違った方向に進めぬよう国民運動を大展開するしかない。

私たちは勝算があるから戦うのではない。
負けるから戦いを止めるのでもない。
勝ち負けや損得は関係ない。
日本のために、やらなくてはならないから戦う。

だから、安倍総理が消費税増税を決めたからと、心が萎えて諦める
ような日本草莽はいないはずである。

人間が決めたことは人間によって変えられる。
負けても失敗しても、未来の日本を見つめた戦略戦術で、私たちは
勝てるまで戦い続けるのである。

私たちは、大東亜戦争の敗北から戦後体制の腐敗堕落、近くは民主
党政権誕生という絶望的な状況を目の当たりにしながら、戦ってき
たのではないか。

私たちは安倍総理を信じるのではない。
日本を信じるのである。
例え、安倍政権が致命的な政策の誤りを犯したとしても、では、私
たちは日本を諦めるのか。
断じてそれはない。

この厳しい現実、戦後レジームの堅固さに、たじろいで自棄になっ
たり、絶望したりなども絶対しない。
絶望的な状況を認識するが、絶望はしない。
日本を諦めず、私たちは日本と日本人に希望を持ち続ける。
私たちは今を生きているだけではなく、過去と未来にも生きる日本
人だからである。

日本草莽の力で、草莽崛起運動は、必ず日本を日本たらしめる力と
なる。
それをしなければならぬ。

私たちの安倍政権支持は間違っていたのか、それを決めるのは、
これからの「私たち」日本人自身である。


  馬鹿な夢をみた女、馬鹿な夢をみた男。どっちも、慎重な人
  より、りこうだったのよ。そのからくりがねえ、私、今にな
  って見えた。
              (曽野綾子『残照に立つ』より)
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