「日本文化チャンネル桜二千人委員会」発足 南京の真実
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旧掲示板

機能回復訓練について、思う事

三保 平清 2005-03-17 19:44:21 No.131109
私は、他のイタに書いているので、その事に余り触れたくはないのですが、話を起こしていく必用上個人的体験から、まず話していきます。私は平成八年のある日、名古屋市内のあるところで、サウナに入りました。その時たまたま「水飲み器」が呼称していて、水を飲めずにサウナに入りました。

翌朝そこに宿泊して、朝風呂に入りくしゃみをしたところ、猛烈にひどい目眩に襲われたのです。何が何やら分からず、しばらく横になっていてもさっぱり気分は戻りませんでした。救急車を呼んでもらおうかとも思ったのですが、とりあえずそこを出て勤め先へ向かいました。

その勤め先が、車で出張して出勤し、そこから又出長で営業に出かけていました。その営業所の事も気になったので、車を運転して行きました。何とか車の運転は出来ました。ところが真っ直ぐなはずの、道路の白い中央線がまるで「大蛇がのたうち回っている様に、曲がりくねって見えました。

「あっおかしい」とは思いましたが。そのまま運転を続けました。そして交差点の赤信号で停止すると、前の一台の車が二台に見えました。色形は勿論ナンバーまで全く一緒でした。「どっちが本物やろう」。いくらめをこらしても分かりませんでした。「ええいっめんどくさい、こっちいう事にしとこう」。

それで名古屋市内の一番の繁華街を走り抜けたののです。片側三車線の広い道を。まだ出勤前の時間帯で、道は混んではいませんでしたが。そこを約二十分位走りました。
三保 平清 2005-10-17 18:19:53 No.242919
     桜咲く様
>小生も丁度10年前大病を患い死の淵から生還しましたが
◆そうでしたか。今はすっかりよろしいのでしょうか。お体大切に。小生は自己療法と病院通いと、こうして書き込みをするのと、一寸一杯やるのが、恒例となりました。今日一日を有り難く思う様になりました。
三保 平清 2005-10-21 14:47:58 No.244696
     (94)
新しく引っ越したが、結局住みづらかった。介護保険でいろいろと助けてもらったが。やはり健常者には良くても、身障者には、ここは無理の様だ。一般に全てが狭いし、建物自体が南北に細長い。しかも私は通路の障害物を避ける様にして、自分の家へたどり着かなければならなかった。

そこで趣味の花の手入れでもしたかったが無理だった。家の外にも全く余裕がないし、一階なら楽と思ったが、今回は苦しかった。それで半年を過ぎた位に、大家さんに折角色々とお世話をかけたが、又母親の下へ戻る事にした。経済的な事もあった。そして元の住まいに戻った。

さて戻ってから、一騒動あった。母親も健康とは言えない。北側の部屋に仏壇と一緒だった。母親に説得は効かない。それで私が強引に母親の部屋を南側の部屋にした。そこには私がいたのだが。母親も相当な年である。冬の寒さは堪えるはずだ。そしてそこに、母親の介護保険でベッドをリースで業者に頼んだ。私が全て独断でやった。

しかし母親はどうしても、ベッドには馴染みきれなかった。そして狭くなるが、箪笥や仏壇を一緒に置いていた。どうしても部屋に置いておきたいらしい。それで折角頼んだリースのベッドは業者に返した。やはり冬はこたつの方がいいらしい。

こうしている時にも、時々タクシーを雇って私は、何回も病院やその施設に通ったので、そのタクシーの運転手とすっかりうち解けて、友達の様になっていた。何か出かける事があれば、彼に頼んだ。やがて彼が自分で掘った竹の子などを下げて、私と母の下を訪れる様になった。私にやっと心強い見方が一人出来た。

彼はパソコンもやっていた。それで時々メール交換をする様にもなった。ある時から、メールを打っても返事が来なくなった。電話してみると、奥さんが出て、彼はガンにかかって入院していると言う。坑ガン在による治療らしい。やがて退院したが、タクシーの運転は止めた。そして暫く私とメールや電話で連絡しあっていた。
三保 平清 2005-10-21 14:51:46 No.244698
訂正 見方が→味方が  でした。失礼。
三保 平清 2005-10-25 13:22:20 No.246427
      (95)
そして今度はこう言う治療をやると、彼から専門的な薬や治療法のメールが届いたが、私にはさっぱり理解できなかった。それでも暫くすると、少し落ちついてきた様だった。そして家で療養をしていた。それが一寸すると連絡がとれなくなった。私の車で一緒に出かける事もあるかと思っていたが。

別の元職場の知人に聞くと、彼は息子のところへ引っ越したらしい。生活の事を考えてだろう。もうタクシーには乗らない様だ。そして私は又友達がいなくなった。その頃だった。和歌山の銀行から、通知が来た。住宅ローンの引き落としができなくなったので、一喝支払いを求めたものだった。

これは私が住宅金融公庫に、自ら出向いて内幕をばらしたのだから、覚悟は当然していた。だからそんなに驚かなかった。やがてその後にやってきた、裁判所の特別送達も予期はしていたが。その裁判所の特別送達には、競売の手続きに入るので、異議があれば、・・月・・日に来てその申し立てをする様にとの通達だった。

私はその頃体調が悪く、とても和歌山までいけない。前回行った時は、予め体調を十分に整え、体力もついた時期をみはからって、出かけたのだ。先方から・・月・・日にと指定されるのは、非常に困った。それと和歌山なんぞ住みたくも、今や何の興味もなかった。第一一人ではそんなところで住めない。近くに良い医療機関も必用だ。

そして私はその物件の中を見た事もなかった。興味は全くなかった。「そんなものいるか」。それで裁判所への回答に、自分は興味も異議もないので、そちらで処分してくださいとの意味を書いて送った。裁判所からの何度めかの通知に、私の宛名を間違えているのにはたまげた。中の通信文の私の名前はあっていた。

裁判所の競売に関する特別送達の宛名を、間違えるとは。一体この国の司法はどうなっとんじゃ。
三保 平清 2005-10-25 13:26:04 No.246428
*100回位かなと自分では思っていました。少しそれを越えそうです。もう少しこの場お借りします。
           三保 平清拝
三保 平清 2005-10-26 18:07:35 No.247015
       (96)
さて、近くの病院へ通院しながら、そして定期的にある期間がくると、例の病院で徹底的に、検査と機能回復の訓練を受けていた。ここには温泉プールがある。15Mmプールとか言う事だった。こんな施設は一寸他にない。それと私は住んでいる環境が悪いので、どうしても外へ出づらい。必然的に運動不足になる。それと入浴がつらい。風呂は好きなのだか゜。

それでその病院へ定期的に行っていた。通院出来ないので、入院か病院の別施設に宿泊したりして。その宿泊施設も風呂は天然温泉だった。そこから、大勢がその病院の訓練に通っていた。遠くからも来ていた。但し病院の関連施設とは言え、宿泊施設であって、病院そのものではない。

しかし食事は三食で、しかも治療食だった。時々病院のリハビリの先生や、看護婦さんの講習や指導もあった。部屋にはナースコールもあった。全て個室でホテルの様なものだった。厚生年金の施設で、全国に四カ所あるらしい。私はここしか知らないが。その全国の四カ所を回っている人もいた。そこで病院のベッドが空くのを待っている人も多かった。ただし健康保険は一切効かないので、生活に余裕のある人達ばかりの様だった。

私は余り病院に入院を繰り返して、健康保険を使ってばかりだと、気が引けたので、この施設も何回か利用した。三度ほど短期間利用した。ここでおかしな事に気付いた。ここでは食事が終わると、皆並んで食器類を返却していた。出来ない人もいたが。私も並んでそうしていた。

ここに来て、に三日すると、猛烈に苦しくなった。それで一週間位で、切り上げて帰っていた。何故苦しくなるのか分からなかった。ある時はたと気付いた。私は前後に並ばれると、どうも調子が悪い。行列は苦手だった。どうも神経に重圧を感じる様だ。それで三度目に利用した時は、食器はそのままにして、部屋に戻る様にした。
        (つづく)
         
三保 平清 2005-10-26 18:10:14 No.247018
      (96つづき)
この様な事をやりながら、何とか体調を維持していかなければならなかった。そうして、私名義の物件が競売になって、今度はその第二抵当の「年金住宅」から催告通知が来た。前に訪れて、「いやうちは構わん。三ヶ月後に保険会社から、債務保証を受けるのだから」と言われた和歌山の「年金住宅」だった。

そこも支払いなど出来る状況ではなかった。それでその後を受けた保険会社から、あらためて支払いの催告通知が来た。これは放っておくより、事情説明に行くか。大阪にある大手の損害保険会社であった。それで又大阪へ出かける事にした。私の訓練とは、こう言う時に移動する為の訓練となっていた。少しでもその時役に立つ為の機能回復訓練だった。だから元気になってもちっとも楽しくなかった。

後にはその始末が控えているのだから。そうしてもうそろそろ催促が来る頃だと思う頃には、ある程度体を仕上げておかねばならない。人の様に家族の世話にもなれない。しかしその頃は大分移動も、要領を覚えていた。長距離の交通機関も色々使ってみた。フェリーや新幹線、飛行機など。私には飛行機が一番楽で、又親切にしてもらって助かった。飛行機で大阪へ行く事にした。
三保 平清 2005-10-27 15:41:47 No.247398
       (97)
こうして又大阪へ出てきた。但し今回は所用で短期滞在である。そうして大阪の繁華街にあるその損害保険会社に出向いた。私は裁判するつもりだった書類一式を携えて行った。住宅信用金庫にも出向いて、自分がその内容をぶちまけた事を告げた。

その人は身障者になって、財産(たいした事はないが)を全て失い、職と健康も失ったこの身の上を分かってくれたのか、穏やかに了解してくれた。しかし会社の業務として、請求書は送り続けますとの事で。私から回収するのは不可能と思ったのだろう。それにしても感じの良い対応だった。

これが終わると私は和歌山へ移動した。行き先は和歌山東警察署。あの「和歌山毒カレー事件」を取り調べた警察署である。ここにどうしても尋ねたい事があったのだ。私の事件とは直接関係はしていなかったが。警察としてのあり方にどうしても、納得がいかなかったのだ。これ以上は書かないが。http://www8.ocn.ne.jp/~kaiji/kokuhatsu2.html

警察署には予め質問状と言う形で、文書を用意して行った。タクシーで訪れると、受付に用向きを述べた。すると若い警察官がやって来て、私を丁寧にエレベーターで、二階に案内してくれた。私はその文書を渡した。彼はそれを受け取ると、上司に渡した。上司とは署長なのか。しかしその上司は顔は一切見せなかった。

私はそこで暫く待たされた。やがてさっきの若い警察官がやって来て、その返事を伝えた。「文書は渡しましたから、検討して回答するかもしれないし、回答しないかもしれない」と言われた。私は咄嗟に回答などする気はないんだと思った。その通りの結果となった。

そしてその警察官に、送られて又エレベーターに乗って下に降り、待たせてあったタクシーで駅へと向かった。これが今回の大まかな用向きであった。それは済ませた。
三保 平清 2005-10-30 16:36:34 No.248894
       (99)
私はそこにあったはずの建物の元会社の営業所の、今は既に別の会社の看板が書かれている窓を眺めた。そしてその左隣の接骨院に患者として、入っていった。元気な時はここと、よく会社の車の駐車で揉めた事もあった。だから彼は私の事はよく覚えていた。私が「今日は患者で来ました」と告げると、丁重に診察治療してくれた。

彼は開口一番懐かしそうに、「二回も救急車で運ばれたもんなあ」と言った。随分あの時は近所を騒がせた様だった。非常に親切な治療だった。そしてリハビリ訓練の仕方も一部伝授してくれた。首をかしげながら、「どこまで治るか分からんけど」と言いながら。

次に私はその建物の、右隣へと入って行った。そこはお好み焼き屋だった。仕事を終えると、倒れる前時々ここで、夕食とビールをやったものだった。そしてタクシーでホテルへと行って宿泊していた。愛知県には住んでいなかった。あくまでも和歌山から出張するたてまえになっていたので。

入ってみると、前とどうも様子が違う。内装は変わっているし、メニューもどうも違う。一番顔を見たかった若い店主が見当たらない。私はそれで「ここは店が変わったの」と聞くと、今度の店主らしき人物が、前の人は「携帯電話の販売のアルバイト」でかなり儲けて、今は別の所でそれを本業にしていると教えてくれた。

店に来る客に一寸声をかけるだけで、随分売れたらしい。そう言う時期だったのだろう。それでこんなに儲かるならと、そちらを本業にしたらしい。それでこの店を売って、別の場所に携帯電話を売る店を作って、そこで今それで営業しているとか。顔を見て話したかったが、無理だった。

次に大家さんにも、会いたかったのだが、昼間はいないのが分かっていたので、あきらめた。そして常時使っていたホテルで一泊すると、大阪へ引き上げた。
三保 平清 2005-10-30 16:00:14 No.248883
      (98)
これで今会のこちらでの用事は済ませた。そしてすぐ大阪へ引き返すや、次は新幹線で名古屋へと向かった。私を手術した病院であった。前もここに電話したのだが、私を手術した先生が転出していなかった。それに九州からは大変だが、大阪からなら楽だ。

それで前もってこの愛知県の病院に連絡をとっておいた。私を手術した先生は又その病院に戻っていた。私はこの先生にどうしても直接会って、どんな手術をしたのか聞きたかった。それを聞く前にこの病院を放り出されたのだ。身内には、随分深刻な状況を告げていた。

しかし肝心の私には、何も告げてくれなかった。身内はさっさと自分の住んでいる所へ戻って、私にはどう言う状況かさっぱり分からなかったのだ。只その病院を出て、大阪へ向かう私を心配そうに見送ってくれたこの先生の姿が瞼に焼き付いていた。これがなかったら、とっくの昔にこの病院を相手取って、裁判を起こしていたろう。

そしてその病院に着き、その先生に診察を受けた。先生は私をよく覚えていて、一応の診察をすますと、最後に嗤いながら、「記念にこれを持って帰るか」と言って、その時のCT写真をくれた。よく助かったなと言う意味なのだろうか。私はそれを受け取ると、その病院を後にした。

そして私の元勤務先のあった場所へとタクシーで行った。久し振りで懐かしかった。その時より大分建物が増えていた。私の勤務先のあった貸しビルへと着いた。会社の名前が変わっていた。私の元勤務先は、家主と揉めながら、従業員の首を切って、和歌山へ引き上げていた。

ここは私が地の滲む思いをして、作り上げた営業所だった。業績も抜群の黒字のはずなのに。何故。経営者は所詮不動産業の様な、一攫千金しか考えていなかった。ここで上げた業績も不動産の投資と、和歌山市内の別の投資に、湯水の如く、使われことごとく失敗した。

三保 平清 2005-11-03 17:46:01 No.249305
      (100)
そして大阪で休憩して、九州へと又帰っていった。帰りに近くの馴染みの居酒屋に寄りたかったが、出来なかった。夜酒を飲んでは、とても歩けない。九州から後に、こちらの名物を送った。おやじの顔を見たかったのだが。そして土曜日の夜に、民謡の会に顔を出した。

土曜日の夜は、民謡酒場となっていた。私は早くに行って、そこが開くのを待っていた。すると又馴染みの別の居酒屋の奥さんが通りかかって、私を見て、「早よ、ようなって又店に顔を出して屋や」と声をかけて行った。

その夜久し振りに、私は何曲か歌った。前の様な声に高音部の伸びがなかった。先生が伴奏のキーを大分低くしてくれた。これを続けられたら、いい「リハビリ」になるだろうにと思いながらも。そして前もって、電話していたので、一人の人が顔を出した。彼は今尺八を作っていた。先生曰く、「最近大分ましなのが出来だした」。

その彼が私に「尺八製作」の「虎の巻」の書籍を私に貸してくれた。その為に先生がわざわざ私の為に、彼をその時電話で読んでくれたのだった。私が尺八作りを、希望しているのを知っていたので。その時自分が製作した尺八を何本か持ってきた。見るとなるほど本格的だ。彼は私の後からこの会に入って来て、その時は尺八など全く吹けなかったのに。

そして帰りは先生が自らの車で、私をホテルまで送ってくれた。その翌日ホテルから、九州まで、帰った。交通手段は何だったかもう忘れてしまった。
三保 平清 2005-11-03 18:10:07 No.249311
   皆様方へ
拙い駄文にお付き合いくださいまして、有り難う御座いました。途中で激励のお言葉も頂戴致しました。感謝の極みです。嵐の様な十年でした。そしてまだ継続中です。つらいのは病気ではありません。世の不条理でした。しかし頑張ります。皆様方も御健勝に。
       三保 平清 拝
野狐禅 2005-11-03 18:30:15 No.249320
三保 平清さま

 永い間、本当に有難うございました。

 三保様の頑張りに負けないように私も頑張る所存です。

 一呼吸終えられ、体調を整えられましたら、新・掲示板の方で是非とも再開されることを待ち望んでおります。
 どうぞご自愛下さいますよう、お祈り致しております。
三保 平清 2005-11-07 11:04:44 No.250419
  野狐禅 様
ご連絡有り難う御座います。小生あと少し書きたい事があるので、新しい掲示板で少し書き残しを書きます。機能回復訓練に励んでいると、思っていたら、いつの間にかこの国の「歪んだ姿」を正面から眺める事となりました。いくら個人で頑張っても、社会参加出来なければ、治った事にはなりません。多少体に不自由があろうと、それで人は生きていかねばなりません。大勢の身体障害者を見るたびに、本当にこの国のあり方はおかしいと思う様になりました。「上医は国を治す」、その上医が消えてしまっています。

それと個人で試した機能回復の事(あくまでも個人的体験)などや他の人の体験や考えなど。身体障害者が正常で、健常者の方が不健全だと思う事もたびたびありましたので。今後ともよろしくお願いします。
珊 島 2005-11-07 14:22:40 No.250472
三保平清様
本当にお疲れ様でした。私等同じ境遇であればとても三保様のようには行かなかったことでしょう。しかしある種の覚悟を知るためにはこのスレッドは非常に勉強になりました。障害を抱えた一人の男が生きて行くにはどの様な困難があるのかどの様にして乗り越えるのか考えさせられました。特に三保様の「私が親しくつき合った人達とは何故か別れてしまう」との言葉には本当に胸打たれました。「防人達の航跡」で明け烏様や松川雅好様達と語った折りにはその様なことはつゆ程にも感じられませんでした。常に烈々たる気合いで満々でした。今思えばそのような気合い気迫が無ければ生きて行けなかったことでしょう。「夢を捨てるのは人生を終わってからでよい」その言葉が今も響いています。新掲示板においても宜しくお願い申し上げます。
                           珊島 拝





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