「日本文化チャンネル桜二千人委員会」発足 南京の真実
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江戸時代について語ろう (PartⅡ)

  山 桜 2004-03-19 08:05:14 No.17643
PCの技術的なことはわかりませんが、小生の安物PCでは書き込み不能の状態になってしまいました。すでに多彩な書き込みもされ、意見も多岐に亘っていますので、あらためて「第二部」のスレッド立ち上げたいと思います。

勝手な話で誠に恐縮ですが、小生「スレ主」として「来訪者」にいちいち応対できない失礼があろうかと思いますが、その点宜しくご高配頂きたくお願いいたします。

それでは、皆様の高論、卓説、持論ときには珍論を期待して、「PartⅡ」開幕とさせて頂きます。
  山 桜 2004-03-22 18:41:59 No.18135
ふらくたる 殿

『葉隠』にこんな言葉がある。

恋の至極は忍ぶ恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋のたけがひくし。一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ。

愛の求めとは、私を愛せよという命令形ではなく、あなたは私を愛しているかという疑問形であるという。しかし、これもまた空しいこころみである。嘘いつわりは申しませんという女に限って疑わしく、真実まことですという女に限って嘘をつく。「リア王」は辛い経験をつうじてこのことを学ぶ。そして、末娘のコーディリアの「愛しなさい、そして何もいわぬこと」という呟きのなかに真実を知る。

この二つの主張から、黙して語らぬ心の中に恋の真実が宿るという「仮説」が成り立つ(笑)。しかし、黙することの完成した姿は死であろう。永遠に心変わりしない愛とは、心中によって証明される愛であり、愛のために死ぬこと以上に愛することがいったい誰に可能であろうか。

「曽根崎心中」がスペインで喝采を博したのは当然というべきでしょう。
鎌倉幕府を見直そう! 酒呑童子 2004-03-22 23:52:32 No.18172
遅ればせながら議論に加えてください。
私は武士道の起源は、鎌倉時代に既に原型があったと見ております。源頼朝公が興された鎌倉幕府こそが江戸幕府の原型であり、後世『武士道』として昇華されたサムライ精神の基本は、鎌倉武士つまりは坂東武者の出処進退にこそ、その源流があると考えております。
鎌倉時代は、西暦で見ると(計算がし易いので今は西暦を使います)源頼朝公が幕府を開かれたのが1192年で、足利高氏の裏切り・謀叛により、幕府が瓦解するのが1333年です。141年間続いた我国で始めての本格的な武家政権でした。此処で得たことは真に大きく、その前と後とでは我国の歴史は全く違ったものになったと見ております。

先ず申し上げたいことがあります。これは戦前戦後を通じて歴史的な評価が低く、世人の称賛を受けていないことですが、私自身は高く評価していることがあります。以下に記すことは、世間一般の常識とは全く異なる私の個人的見解(極論暴論です)であることをお断りしておきます。

それは鎌倉幕府が滅ぼされた時の、執権北条氏の見事な最期に付いてです。
足利高氏の突然の謀叛により、六波羅探題は倒されてしまいました。その時北条一門は、光厳天皇を奉じて、関東へ落ち延びようと近江路を東に下りますが、護良親王の軍に遮られてしまいました。その時、もはやこれまでと、北方探題の長 北条仲時以下、主従郎党430余人が、番場蓮華寺に於いて集団で自刃しました。更に新田義貞の謀叛で、鎌倉が攻め落とされた時も、得宗 北条高時以下、執権 赤橋守時、連署 金沢貞顕、内管領 長崎延喜・高資親子など北条家の主従・一族郎党が、菩提寺の東勝寺に於いて、870余人が集団で自刃したと言われております(書物によって数字が違いますが、数百人規模で集団自決が行われたことは間違いありません)。つまりは鎌倉幕府の滅亡の際には、鎌倉と六波羅に於いて合計で千人以上の北条氏一門の武士達が、命よりも名を惜しみ、生きて虜囚の恥かしめを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ・・・との精神で自ら命を絶ったのです。まさしくこれぞ大和魂と葉隠れの精神の原型であり、貴き武士道精神の発露だと考えます。
鎌倉武士と公家衆の差!   酒呑童子 2004-03-22 23:57:29 No.18174
これは大変なことだと思いますよ。もっと世間に広く知らしめて高く評価され、称賛されて然るべき潔い身の処し方だと思います。鎌倉幕府が、その最期を潔く飾ったという点で出色であり、この点では後の室町幕府や江戸幕府を凌駕していると見ます。これぞノブレス・オブリージュそのもの。トップの者が最終的に責任を取った。切腹という作法で・・・これに対して、室町幕府滅亡の際に将軍 足利義昭は死にましたか?管領は死にましたか?上役は誰も死んでません。下級兵士が捨て殺しにされただけです。江戸幕府はどうでしょうか?やはり幕府の上役は死んでませんね(小栗上野介の斬首は例外)。徳川慶喜も勝海舟も大鳥圭介も榎本武揚も・・・・

この辺にMinerva梟様が言われる支配階級の貴族化(実際は公卿化)といった我国特有の「堕落の構図」があるのだと思います。

ちなみに当時の天皇や公卿の立ち居振舞いはというと。
光厳上皇やその弟で後の光明天皇、関白 西園寺公宗、参議 観修寺実顕など誰一人として自裁したものはおりません。北条の力を借りて、後醍醐天皇を廃立し、自ら天皇の位につき、朝廷内で栄誉栄華をほしいままにしていたくせに、負けると一転して手のひらを返したのです。曰く「此度のこと、もとより本意にあらず、北条に強いられた為なり。お上の広き御心により、何卒、ご寛恕のほどを・・・」と命乞いをして助かりました。ところが尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、これに乗って北朝を立てました。事ほど左様に卑怯な振る舞いに及んだのです。北条一門の見事な出処進退とは対極にあります。鎌倉執権北条氏は、悉く失政と敗北の責任をとって自害しましたが、持明院統の皇族と公家衆は誰一人責任を取りませんでした。

従って武士道は、我国古来の伝統文化ではなく、歴史が進化する過程で、鎌倉幕府を築いた坂東武者の精神文化が昇華されたものであると考えます。雅な朝廷文化とは、むしろ対極にあるものです。むしろこれこそが、Minerva梟様の言われる「日本病」の根源ではないでしょうか?鎌倉時代の再評価が必要だと思います。
紳士日記 2004-03-23 00:38:08 No.18178
酒呑童子様
皆様

>>鎌倉時代の再評価が必要だと思います。

>全く同感。鎌倉佛教と鎌倉美術も是非見直さなければならないと考えます。日本佛教史上で、最も華やかな時代が鎌倉時代であり、日本美術史上で最も高い精神性と、高度な彫刻群を有しているのが鎌倉彫刻であると思います。

 そして、日本においても「美」とは神の肖像という一面を間違いなく持っています。また、鎌倉佛教とは日本特有の佛教一派の誕生とも捉えられます。当然、宗教を精神性と切り離して考えることは難しいでしょう。

 これらの再評価は、武を持って統治する者の精神文化、道徳文化の評価であり、その研究に大きく寄与できると思います。また、それは為政者に望ましい精神のあり方を論ずることにもつながると思います。
Minerva梟  2004-03-23 08:39:24 No.18194
酒呑童子様

人と話していて,突然,その人の中に,新しくキラリと輝くものを見つけたとき,話を黙って聞いていながら,胸が熱くなることがあります。
男子たる者,そのような思いは,態度に表すわけにもいかず,通常は,無表情のうちに話を聞き終えるのですが。

ここは,掲示板。まことに淡き君子の交わりも可能な世界。しかも,匿名。
それゆえ,大兄の語られた言の葉に,いささか胸動かされる思いのあったことを,ここで述べる不躾をお許しください。

大兄が,日ごろ,吉田ドクトリンについて語られ,また,シナへの備えについて説かれるとき,小生も共感を覚え,琴線は共鳴しております。
また,軍事に関する深い洞察の一端をかいま見つつ,敬服しております。

今回は,武士道について,その思いを語られた大兄に接し,思わず一言申し上げた次第です。

小生自身は,武士道に関し,通説とは異なる偏屈な考えをもっておりますが,大兄のお話しから学ぶところがありました。
文武両道がすたれ,長袖者と芸人の気風が列島を覆う昨今,武とノブレス・オブリージュを語る大兄のご活躍を,遠くから眩しくも嬉しき気持ちで,見守っております。

Minerva侍臣
フクロウ拝

青葉の笛 2004-03-23 11:41:54 No.18243
執権北条氏の武士道についてのお話がありましたが、果たして執権の集団自決が潔さの証であるのか私には不徳にしてわかり得ない部分がございます。
あの時代の死に対する向き合い方は江戸時代の武士道とも異なる独特な部分があったような気もします。
例えば平氏滅亡における壇ノ浦での集団自決を見ましても追い詰められた最期は来世に逃亡すると考える死生観が根深くあり、それが武士道か、潔さかは不明な部分も多くあると思います。

いや、誤解なさらぬように、私は北条氏の最期について批判的な言動を弄して彼らを侮辱する意図は毛頭ございませんことをあらかじめ申し上げて起きますが、
あの時代の前後には同様な一族総自決でエンデイングになる局面が数え切れないくらいありました。
時代が下って、武田勝頼の一族自決、信長に謀反の疑いをかけられた荒木村正の一族自決、ちょっと時代が戻れば楠木正成にしろ初期の源平合戦にしろ戦い利あらずと見れば一族郎党城を枕に、あるいは菩提寺にて現世に終止符を打ち来世に渡ろうとする宗教感。この世に不徳を残さずさっぱりと来世に打ち渡り捲土重来を期するとの死生観があったのではないでしょうか。

確かに室町幕府の最期は潔さとは無縁の泥人形が崩れ落ちるような印象もあります、江戸幕府の大政奉還にしろ鎌倉の最期に比べれば迫力に欠けるのは否めません、ただ、一か八かの最期の闘いに赴く大義名分も鎌倉との比較では薄かった想いはありますが。

ところで、北条氏は確か平氏の出、鎌倉幕府は源氏の血統ですね、北条氏が執権である場合、傀儡の源氏の将軍が居たはずですが、北条氏は何故平氏の政権を打ち立てなかったのでしょうか。
お世話になった源氏宗家への義理立てで武士道を貫いた?いや、何故でしょうか、平氏であるゆえ幕府は開けぬの道理なら後の豊臣式の政権でも開けたはずですが。最期まで鎌倉源氏政権の番頭で終わったのは何故でしょうか。
紳士日記 2004-03-23 12:59:49 No.18253
発言者自身により削除されました
青葉の笛 2004-03-23 12:59:53 No.18254
訂正

荒木村正は荒木村重の間違いでした、
また荒木自身は自決でしたが、一族は
信長により処刑されていました。
お詫びして訂正いたします。
紳士日記 2004-03-23 13:01:16 No.18256
(四)「遠山金四郎VS鳥居耀蔵」

 さて、天保の改革当時の江戸は、北町奉行が遠山金四郎、南町奉行が矢部定謙でした。矢部定謙は故大塩平八郎とも親交があった清廉潔白で高潔な武士であったと言われています。

 ところが、改革が半年ほど進んだところで、鳥居耀蔵が謀略を駆使し(詳細は省きます)、南町奉行に取って代わります。

 市井ではこんな歌が詠まれました。

「町々で おしがる奉行やめ(矢部)にして どこが取り柄(鳥居)で、何がよふ蔵」

 さて、その鳥居が行った最も卑劣な政策が「密偵」だと思います。

 例えば、銭湯や茶屋などで「今年は花火が禁止になるそうだ」などと話を切り出します。そして「残念なことだ、矢部奉行だったら花火はあったはずだ」などと煽り、「それが、今の鳥居奉行ときたら...」と話を進めます。そこで、相手が「全く、鳥居の奴は...」と受ければ即逮捕されるという仕組みです。

 またある時は、絵草子屋へ行き、金を積むから「枕絵(早い話がエロ)」を売ってくれなどと持ちかけます(これには女性の密偵が関わっていたようですが)。絵草子屋の主人が、口車に乗り、奥から枕絵を出したら逮捕というわけです。

 つまり、「罪人候補を探し出し、罪人を作り上げる」。まさに、鳥居の政界工作そのもののような政治が繰り広げられるわけです。

 隣にいる人間が“幕府のスパイ”かもしれない。これは言論弾圧であり、恐怖政治以外の何者でもありません。江戸は疑心暗鬼の渦に叩き込まれたことでしょう。

 これに対し、金四郎はどんな対抗措置を行い、江戸庶民を守ったと思いますか?

 金四郎は逆に、逮捕されそうになった者が、密偵に賄賂を渡して、見逃して貰うように仕向けさせます。そして、その密偵を“賄賂を貰った罪”で逮捕するのです。何とも逆転の発想だと感心します。
紳士日記 2004-03-23 13:02:15 No.18257
(五)「遠山金四郎VS水野忠邦」

 さて、水野の考えは「町人から娯楽施設を奪うことで風紀を整え、さらには、地方からの移民を戻し、米の生産を増やす」というところであったと思います。

 これは、米本位制度において、ある意味正しいのかもしれませんが、都市の発展や商業を考えれば、常軌を逸した政策だと思います。

 当然、芝居や遊芸が披露される「**座」などは許しがたい存在なわけです。ところが、これらは町人にとっては娯楽であり、江戸そのものに活力や、客を呼び込む重要な施設でもあるわけです。

 そこで、金四郎は先手を打って、「追放」の名の下に、当時、江戸三座と呼ばれた「中村座、市村座、森田座」を浅草に移転させます。

 当時、吉原とお参りの場所だった浅草はこれにより、その後、江戸の一大文化中心地として栄え続けます。現在の浅草の繁栄の一端にも、実は「遠山の金さん」が関わっていると考えると実に不思議ですね。

 また、株仲間の解散にも反対するなどの、金四郎の優れた江戸の経営観は、若き日、町人として過ごしたから可能だったのでしょう。この後、金さんは大目付に昇格となりますが、どうも改革勢力からの左遷的人事であったようにも考えられています。

 水野は老中解任後、江戸の庶民の群れに家を襲撃されています。これを考えても水野という老中が如何に庶民に不人気であったかが窺われます。

 それにしても、着任時には、「どんぶりと 寝耳に水の(水野) 身の(美濃)哀れ(忠邦は美濃守を始め、多くの側近を罷免し、政権中枢の人事を一新した)」と水野忠邦の政権は迎え入れられたような落首も詠まれているのですが、大衆の変わり身は怖いものです。
紳士日記 2004-03-23 13:03:01 No.18258
(六)「遠山金四郎の実像」

 弘化二年(1845)、水野が老中を辞して間もなく、金四郎は再び江戸の町に南町奉行として戻ってきます。

 そして、1852年までの7年もの間、江戸奉行としての職務を務めています。また弘化三年、本郷の大火が発生した折にも、金四郎は米蔵を解放し、非難小屋の建設を行い、特別予算を組み、町の復旧に尽力しています。

 さて、六話にわたり「遠山金四郎」について考えてみたのですが、どうやら、鳥居耀蔵と水野忠邦に対しての対抗馬として、遠山金四郎が過剰に庶民から支持された一面は否めないような気がします。

 唯、事実と物語の間に「遠山金四郎」という人間が存在し、江戸の町奉行として長期にわたり、政治を行ったのは間違いがないようです。そして、それは江戸の庶民に歓迎されたようです。

 そして、為政者としての遠山金四郎ではなく、物語としての「遠山の金さん」を考えたとき、庶民にとっての理想の為政者(支配者)とは、時代劇としての、「水戸黄門」であり、「暴れん坊将軍」であり、「遠山の金さん」なのだろうと、思うに至りました。

 こうした、伝記とも歴史とも娯楽とも就かない「時代劇」というジャンルは実に不思議な現象だと思います。これらの時代劇は、もしかしたら「為政者とはそうあって欲しい」という庶民の切なる願いに端を発していたのかもしれません。

 長々私論を失礼致しました。お読みくださった方に感謝致します。
青葉の笛 2004-03-23 13:29:23 No.18263
「心中」のお話がございました。
無知浅学に対するお叱りは覚悟で私なりの考えを述べさせていただきます。

封建時代における「心中」はもともと「真」を尽くすから発生し、相手に自己の思いの真実なるを証明するために死を選ぶとされておりますが、動かせぬ身分制度のもと飛躍は許されず自己のできる範囲での清算をなすならば死が最も身近な選択であったのでしょうか。例えば二つに一つ、こちらを立てればあちらが立たずの場合にも死を持ってこれらの矛盾を一気に清算をなすとする考え方が日本人に独特なものかどうかは解りませんが、忠臣蔵の中でも義と女性との板ばさみならまっしぐらに死を選ぶとする傾向があります。

ぷらくたるさまの言によると、愛し合う男女が進退窮まって死を選ぶということと、ある目的のためには死をも厭わぬとする心とは相反する二つのことであるような気がいたします。
進退窮まって死を選ぶのは逃避であり、来世信仰の故のこの世でかなわぬ恋ならば生まれ変わって添い遂げましょうとする考えと、ある目的のため、例えば主君のため、あるいは主の身代わりに、自らの命をささげるなどの死は前者とはまた異なる選択であり、誰かを生かすために自らが死を選ぶこれこそが西洋には無い日本独特の死ではないかと思います。
進退窮まっての死は古今東西、西洋にも見られる現象ですが、主君のために身をもって主を生かす、あるいは自らの真実を証明するために死を選ぶことが日本的であるのか議論は分かれるところだと思います。

戦時中艦と運命を共にする海軍の提督たちのありようは、英国のフイリップス提督が日本軍機の攻撃を受けまさに沈み行く軍艦POWと運命を共にしたことに触発されたとも言われています。
この死は、果たして心中であるのかどうでしょうか。
  山 桜 2004-03-23 13:53:06 No.18266
  青葉の笛 殿

#18243、#18263、のご意見に共感しました。
詳しいコメントができませんが、取り敢えず、意思表示まで。
酒呑童子 2004-03-23 14:47:57 No.18276
青葉の笛様

>執権北条氏の武士道についてのお話がありましたが、果たして執権の集団自決が潔さの証であるのか私には不徳にしてわかり得ない部分がございます。

死生観は人それぞれでしょう。そして世に連れ歌に連れ変わってまいりましょう。
しかし今回、私が問題としているのは、同時代(鎌倉時代末期)の武士と公家衆との緩急在りし時の立ち居振舞いの決定的な差異です。そしてそれが齎した後世への政治的影響です。
良いですか、もう一度繰り返しますよ。鎌倉幕府が滅んだ時に、執権北条氏の主従・一族郎党は千人以上も集団自決しました。彼等だって命が惜しければ、降伏し土下座し、命乞いすることも出来たでしょうよ。そうすれば、少なくとも皆殺しにされることはなかった筈です。しかし北条一族はそれをしませんでした。そのような振る舞いは見苦しい、恥だと考えたからです。これに対して、持明院統の皇族や公家衆は、全ての責任を北条に擦りつけて、ひたすらに命乞いをし、後醍醐天皇のご寛恕を受けて生き長らえたのです。ところがその恩さえ忘れて、足利尊氏が謀叛の兵を挙げると、再び手のひらを返して、これに加担し、北朝を立てて皇位を簒奪し、朝廷を奪ってしまいました。一体全体、どちらが尊敬に値する振る舞いでしょうか?私は、持明院統の皇族公家衆の振る舞いを人間として軽蔑します。それに引き換え、北条一門の潔い最期に、武士道の原点を見る思いがします。西欧社会で言うノブレス・オブリージュと共通するものは、朝廷の貴族(皇族・公家衆)ではなく、坂東の土に咲いた鎌倉武士にこそ、その源流が見出されると申し上げているのです。

>ところで、北条氏は確か平氏の出、鎌倉幕府は源氏の血統ですね、北条氏が執権である場合、傀儡の源氏の将軍が居たはずですが、北条氏は何故平氏の政権を打ち立てなかったのでしょうか。

源氏の将軍は、源頼朝の死後、頼家、実朝と三代で終わります。その後は、源氏の係累(頼朝公と姻戚関係にあった)である公家(九条家)から将軍を迎えました。更にその後は、持明院統の皇族をお迎えして「宮将軍」として擁立します。北条は自ら征夷大将軍には、なれないので、鎌倉の安泰と朝廷との関係を秤にかけて、こうして代々、持明院統の皇族・公家衆と親交を結び、その人々を優遇したのです。
酒呑童子 2004-03-23 14:50:45 No.18277
青葉の笛様 続きです

ちなみに後醍醐天皇は、これと対立する大覚寺統の皇族です。後嵯峨天皇の後、後深草天皇の血統が持明院統であり、亀山天皇の血統が大覚寺統です。これ以後、双方が交互に天皇の位に就くことになりました。これが世に言う「両統迭立」です。この朝廷内部の複雑な対立抗争が、やがては討幕運動に発展し、結局は鎌倉幕府の滅亡に繋がるのです。

>お世話になった源氏宗家への義理立てで武士道を貫いた?いや、何故でしょうか、平氏であるゆえ幕府は開けぬの道理なら後の豊臣式の政権でも開けたはずですが。最期まで鎌倉源氏政権の番頭で終わったのは何故でしょうか。

征夷大将軍は、源氏の嫡流でなければなれません。関白太政大臣は、五摂家の公家(近衛、橘、鷹司、一条、二条)でなければなれません。そうした決まりがあったのです。

勿論、後の世になると段々とルーズになっていきます。
現に百姓の子倅だった木下藤吉郎が、藤原氏の養子となり、関白太政大臣 豊臣秀吉となります。また三河の土豪 松平元康が、吉良家の系図を改竄して源氏の血統だと偽り、征夷大将軍 徳川家康となったりしました。しかしこれは、下克上が日常茶飯事となった戦国時代の話です。鎌倉時代には、血統・家柄・門地・門閥に基づく身分制度は、未だに絶対的なものでした。

従いまして、元は伊豆の小豪族に過ぎず、平氏の血統を引く北条氏には、征夷大将軍となる資格はありませんでした。無論、公卿でもないので関白太政大臣にもなれません。得宗専制体制を確立し、鎌倉を否、日本全土を壟断できるほどの実力を持っても、この身分制度の壁を越えることは出来なかったのです。これがこの時代、まだ律令制の残滓が色濃く残っていた鎌倉時代の政治的限界だったのです。
青葉の笛 2004-03-23 16:54:32 No.18291
酒呑童子 さまへ<

大変に深いご造詣を窺がいましたこと光栄でございます、まず私なりの見方でございますが、鎌倉幕府が持明院統の光厳天皇を立てて争乱を鎮めようとしたおりに後醍醐天皇の反幕府の動きが北条氏の得宗政治に反発する源氏の武将を刺激し、その結果が足利高氏(のち尊氏)や新田義貞らの倒幕運動でありそれが成功したに過ぎないのではないでしょうか。
ゆえに、私は足利高氏らの挙兵を謀反だとは思わない立場を取らせていただきます。(もともと尊氏たちは源氏であり北条に組み敷かれるは潔しとせぬは挙兵にいたるも謀反とは思えぬとの考えです)

まず最初に経済の発展が支配階級へのドラマチックな影響を持ち始めるという角度から見てみますが、ポイントは鎌倉前期までは古代以来の農業共同体の秩序がまだ有効であり、武士は荘園によって独立した勢力を形成していたのです。この原始的な荘園経済が鎌倉時代に農業の大発展を見るときに必然的に優れた農産物を売買する商人が誕生し彼らは貴族、寺社のもとに「座」を結成し幕府の支配の及ばない領域を持ってくるのです。
御家人である地頭が治める土地に寺社の保護を受ける行商人が入り込み、今度はこれらの商人と結んで新興勢力たらんとする新勢力は北条政権で窓際族的な武士階級が勢力を盛り返さんとして治安を引っ掻き回すいわゆる「悪党」と呼ばれる新勢力が台頭してくるのです、楠木正成などは典型的な「悪党」勢力でありこれらの商人と結託をした武家衆が南朝方につき、旧勢力たる武家が北朝方につき動乱の時代が到来するのです。

さて、公家集が自決をせずに時の有力者側になびく行為は武家と違って処刑される可能性が非常に低く絶えず天皇と武家を結ぶ中間人の役割をその行とした性格から、彼らの日和見は当時は誰からも非難は受けず、またどっちに転んでも命の保障はあったはずですから
武家であった北条氏の末路とはまったく異なった生き方は責められるべきではないと考えますがいかがでしょうか。浅学ゆえの暴論もあるやもしれませんが私の考えを書かせていただきました。
青葉の笛 2004-03-23 17:38:47 No.18294
ご案内のように、鎌倉時代初頭の守護は至極曖昧な存在であったようです。地頭が各々の自領に独自で支配を行っていたため守護と地頭との境目が曖昧なままで新興勢力たる商人と富裕な農民を生み、これらの富裕な農民たちは自らが武装をなしその一部は南北朝の動乱の中で武士へと成長していくのです。
国人になれなかった有力農民は村単位で団結をし番頭などと呼ばれ寄り合いの指導者になりこれらもおりあらばと自らの武装を拡大し、武士へと成り上がっていくまさに乱れに乱れた有様が体制の緩んだ鎌倉末期の様子であったのです。
もちろん豊かになったのは商人と農民だけではなく、力のある守護大名は貴族を蹴散らし皇室すらも軽んじる守護大名が登場するのです、いわゆる「ばさら大名」であります。このような時代に得宗専制政治はたがが外れた桶のごとくあちこちから水が漏れ、もはや全国の守護大名を統率する力はとうに失っていたのです。

そこに関東の有力大名の足利高氏が楠木征伐に向かう途中、敵は本能寺ならぬ、敵は執権北条一族であると源氏の旗を揚げ反転したのが鎌倉幕府の終焉であり北条一族の滅亡になった過程です。
この場合、北条氏が取る道は二つ、徹底抗戦で寄せての源氏の大群を退けるべく地方の有力大名や豪族に何らかの錦の御旗を持って号令をするか、あるいは史実のごとく鎌倉を死守し敗れてはどの道凄惨な処刑が待っている戦国の習いゆえ、一族総自決で文字通りジ・エンドにするかのどっちかでしょう。

ところでスレ主さまにお願いがあります、小生のパソコンではそろそろスクロールが大変になりました、書き込みも大変になりつつありますので、適当なところで新スレの開始をお願い申し上げます。
  山 桜 2004-03-23 18:13:06 No.18295
 青葉の笛 殿
  関係各位

諸兄の力強い論策により当スレッドも満杯に近くなりました。つきましては、元「スレ主」の権限により、ひとまずこのスレッドを去り、新たなスレッド「日本の歴史について語ろう」に移行することと致したいと思います。江戸時代の枠をとり外しましたのは、これまでの議論の推移に合わせたためであり他意はありません。

何分、船頭が多く船は山に登りつつある状況ですので、なるべく「歴史」という意識を踏まえて、ご議論賜りますようお願い申し上げます。

 元「スレ主」・山桜 拝
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