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歴史討論:米国はなぜ日本を攻撃したのか

駿河山人 2005-08-18 20:11:52 No.209590
米国はなぜ支那事変の蒋介石援助をソ連に肩代わりし、さらに太平洋戦争を起こしたのでしょうか。私としては蒋介石を利用して支那と満洲の支配を狙っていた。また東部戦線を安全にしてソ連を支援すること位しか思いつきません。皆様のご賢察をお願いいたします。
なお「民主主義」は、米国自体が当時世界最大の人種差別国家であり、残酷な独裁国家ソ連、野蛮な軍閥蒋介石国民党と手を組んで、立憲君主国家で秘密自由選挙を実現していた日本を攻撃した以上、疑問に思いますが。
みなとや  2005-08-28 03:15:49 No.215851
駿河山人さんの世代年代は戦後教育の世代のように
察します。

>新史実を見ると米ソ支那がお膳立てをして日本を
>ハメタというべきでしょう。

“新史実”などというのは今まで知らなかったことを
知ったということでしょう。

国際連盟も戦前は小学校の歴史の時間で教えてました。
韓国や中国では反日教育を小学校から徹底して教えて
いると思います。

箸の使い方など行儀作法や生活習慣などは子供の時に
教えられます。しかし戦後はGHQの指令で地理歴史
は教育科目から廃止されて社会科の一部なので歴史の
時間は少なくなり歴史の知識武装では中韓に劣ります。

ネット時代になり付け焼刃的に歴史を知ってもかなり
目こぼしが多いのは否めないことだと思います。


通りすがり 2005-08-28 11:23:19 No.215961
みすず書房 現代史資料(35)太平洋戦争2 より

 査問会議議事録

 二 陸軍査問委員会の極秘報告

一、全般(略)

二、1941年9月から12月にいたる日本の行動と意図に関する情報(略)

三、”ウインド”・メッセージ
 ……(前略)………サフォード海軍大佐[海軍通信部防衛課長]は、海軍の立場から、
日本が1941年11月26日頃放送した”ウインド”・メッセージについて詳しく述
べた。日本は、このメッセージによって、ソ連、英国、オランダおよび米国に対する戦
争についての意図を示そうというのであった。1941年11月28日、”ウインド”
暗号が示された。1941年12月3日、バタビア駐在の海軍武官は他の方式の”ウイ
ンド”暗号を伝えた。。これら三つのメッセージの全部は、外交関係の断絶と、米国ま
たは前記の他の諸国に対する日本の攻勢的な戦争の可能性を示唆した。
 1941年12月4日、サフォード大佐にとどけられた”対英米戦争、ソ連とは平和”
という日本の”ウインド”・メッセージを含む情報を海軍省から受取った。
 このメッセージの原文は、今日、海軍省のファイルの中に見当らず、探し出すことが
できなかった。それは真珠湾が攻撃された直後には存在しており、ロバーツ委員会に提
出するため他の書類とともに集められた。その当時、このメッセージの「写し」は各部に
存在していたが、現在はその全部が見当らない。(陸軍査問委員会記録133〜135ページ)
 サフォード大佐は、ラッセル将軍の質問に対し、次のように証言した。
通りすがり 2005-08-28 11:25:03 No.215964
 問 貴官は、このメッセージの原文を見出すため、海軍省で行なわれた捜索に協力し
たか。
 答 協力した。私は、最後の手段として、たびたび20G[注・海軍通信部防衛課の略称]
に対してそのメッセージの「写し」を要求し、最後に、20Gの責任者のストーン大佐に、
部下を激励し、「写し」が発見できないか、もう一度確かめるよう依頼した。ストーン大
佐は、どうしても見出せないとき、この「写し」を受けたかもしれない送付先の書類を要
求した。この書類には、他のメッセージの処分については記註してあったが、作業用紙
といっしょにファイルしてなければならない傍受したメッセージの原文のカーボンの
「写し」も解説文の「写し」など、”ウインド”・メッセージのものは見当らなかった。解
読文の「写し」の一部は、私の記憶では、JD7001にファイルしてなければならなかった。
しかし、その番号のファイルは見つからなかった。
 私が真珠湾攻撃後、最後にそのメッセージを見たのは12月15日ごろであった。そ
れは、ノイズ提督[注・海軍通信部長]がロバーツ委員会に証拠として提出するため、重
要なメッセージ全部を一つのファイルに集めるよう要求したときであった。クレーマー
中佐がそれをまとめ、私が完全であるかを点検し、われわれは重要なものだけを苦労し
てえり分け、”ウインド”・メッセージの解読文をその中に含めた。私は、それが返却
されたかどうかは記憶しない。私の承知している限り、それはロバーツ委員会の書類の
原文といっしょにあったかもしれない。私の記憶では、それは返却されず、それ以来、
われわれはそれを見なかった。
 われわれは数回にわたって、「写し」が見つかったら、われわれに提供するよう陸軍側
に要求した。われわれは、このメッセージの正確な期日と字句を知りたいと努力した。
……(中略)……
通りすがり 2005-08-28 11:25:52 No.215965
 問 ここで、問題点について質問したい。
 答 承知しました。
 問 貴方では、20Gのメッセージのファイルのあった場所に20Gのものがあり、それ
とは別の場所にJDファイルを保管していたのか。
 答 その通りです。
 問 しかし、JDファイルにメッセージをしまっていたのか。
 答 その通りです。
 問 そのメッセージは、20Gファイルと同じものであったか。
 答 その通りですが、機密程度の異なったものであった。
 問 ところで、この12月4日のメッセージは、それをJDファイルに入れた場合の
番号は、貴官の証言によると、7001であったのか。
 答 そうだったと思う。
 問 はっきり知らないか。
 答 はっきり記憶せず、間接の推定証拠にすぎない。
 問 ところで、現在、そのファイルの中にJD7000はあるか。
 答 JD7000も7002もある。
 問 しかし、7001だけがないのか。
 答 1941年12月分のファイルはあるが、7001だけがはいっていない。
 問 別の場所にある20Gのファイルについて質問したいが、この12月4日のメッセ
ージだけが、これらのファイルの中に見当らないのか。
 答 われわれは探したが、それだけは見出すことができなかった。われわれが探さな
かったものの中に行方不明になったメッセージがあるかもしれないが、われわれはその
一貫番号を探し出すことができなかった。まる一ヵ月間探したが、行方不明になってい
て、その理由がはっきりしないメッセージは、それだけである。

四、14部に分けたメッセージ[日本の対米最後通告]の伝達(略)
通りすがり 2005-08-28 11:27:35 No.215969
五、要 約
 ここで、われわれは、1941年11月27日から12月6日にいたる決定的な時期
について述べたい。この期間、国務省、陸軍省および海軍省のすべての高官に多数の情
報が報告され、これらは攻撃が行なわれそうな正確な期日と時間など日本の意図を正し
く示唆していた。
 この異常な情勢について決着をつけるにあたって、日本の最後の回答[14部に分けて
打電された]のうち第13部までの内容が完全に解読され、平易な英語に翻訳され、ハワ
イ時間の12月6日に陸軍省では詳しく完全にわかっていたことを示す記録を考察しな
ければならない。陸軍省情報部極東課長は、この情報を鍵のかかる書類箱に入れてベデ
ル・スミス大佐に渡し、このメッセージはマーシャル将軍にとって最も重要なものであ
る、と大佐に語った。この情報は情報部長マイルズ将軍と戦争計画部総務主任ガイレー
大佐にも渡され、それは時が到来し開戦が近づいていることを示すきわめて重要なもの
であると知らされた。この夜の10時30分以前に、極東課長は同じ情報を国務長官室
の宿直員に伝えた。
通りすがり 2005-08-28 11:28:19 No.215971
 マーシャル将軍は、12月6日はワシントンにいた。記録によれば、この情報はきわ
めて重要なものであったが、その日のうちに、スミスもゼローもこれをマーシャルに報
告していない。最後の第14部を12月7日午前に受けたとき、これといっしょに、この
長文のメッセージを1941年12月7日午後1時に国務長官に提示するよう訓令した
短い電報がはいってきた。極東課長ブラトン大佐は率先してマーシャル将軍に報告する
こととし、伝令の将校をフォート・マイヤーのマーシャルの自宅に派遣したが、マーシャ
ルは乗馬に出かけて留守であった。ブラトンがやっとのこと電話でマーシャルと連絡が
とれたとき、マーシャルは陸軍省に行くと言った。午前11時25分ごろ、ブラトンは
マーシャルに報告し、その後、マーシャル将軍自身が12月7日のメッセージを作成し
た。このメッセージは民間のウェスターン・ユニオンの無線で送信されたので、ハワイ
の指揮官に適時にとどかなかった。それがとどいたのは、攻撃の数時間後であった。
 ここで、”ウインド”・メッセージについて述べたい。これは日本の海外向けニュー
スと天気予報の放送の中に挿入され、戦争が英国、ソ連または米国、あるいはこれら三
国全部に対して行われることを示すため、特定の字句を繰返えし伝えたメッセージであ
る。
通りすがり 2005-08-28 11:31:20 No.215973
 連邦通信委員会が、傍受信所によって、この重要な字句の放送を監視することになっ
た。傍受信所が、この電波を1941年12月3日にキャッチし、解読して、その情報
は前述した高官に報告された。1941年12月3日の夜、海軍はこのメッセージを傍
受し、解読してみると、「ソ連とは平和、米国、英国およびオランダと戦争」というので
あった。サフォード海軍大佐の証言によると、彼が最初にこのメッセージを見たのは、
1941年12月4日(木曜日)の午前8時ごろであった。このメッセージは、これを
受けた当時の宿直士官であったブラザーフッド海軍予備中尉から報告されクレーマー中
佐がそれに付記したものによると、その前夜に受信されていた。
 サフォード大佐は、このメッセージを受けたので、1941年12月4日の正午から
午後4時までの間に、アジア方面の電信所に対し暗号機械と機密書類の処分を指令する
5つの電報を起案した。海軍情報部極東課長マッカラム大佐は、各艦隊と米本土以外の
各部隊あて長文の電報を起案した。この電報は、開戦は決定的であるという海軍情報部
と海軍省通信諜報部の見解を確認したものであった。
通りすがり 2005-08-28 11:32:05 No.215974
 この”ウインド”・メッセージは、今日、海軍省のファイルの中に見当らず、大いに
捜索に努力したにもかかわらず発見できなかった。サフォード大佐が最後にそれを見た
のは1941年12月14日ごろであり、彼がクレーマー中佐とともに書類をまとめ、
ロバーツ委員会が証拠書類として使用するため海軍通信部長に提出したときであった。
 従って、12月4日から12月6日にいたる間に、12月6日の土曜日と7日の日曜
日に戦争の切迫がはっきり確定的であったことは疑う余地がない。
 1941年12月7日の午前までに、日本が実行を計画しつつあったことの全部は、
すでに解読していた長文のメッセージの第13部までとともに第14部を12月7日午
後1時、すなわち、真珠湾に爆弾を投下するのと同時に、米側に提示するよう日本大使
館に訓令した最後のメッセージを除いて、米国にわかっていた。
HT 2005-08-28 13:43:57 No.216053
愛さんへ

>元々英米のユダヤ国際金融系列が、あの恐ろしい共産主義革命をロシアに起こそうと、日露戦争に日本を支援したのである。

ユダヤ国際金融系列が起こしたのではなく、日本がソ連に革命を起こさせたわけです。 そのためソ連の革命派に何度も資金提供や面談をしています。

イギリスは中国の利権をソ連から守るために日露戦争に協力しただけです。おもに情報などで協力。

しかし、アメリカは日本の足を引っ張っただけです。アメリカが日露の仲介を申し出た時、ロシアはこれ以上の戦争の継続は不可能だったため、戦争は日本側の勝ちで戦利品(南樺太と朝鮮半島の権益と満洲における権益を確保できた)を得ることとなった。しかし、アメリカはソ連との交渉案を「ソ連からは回答を得られなかった」と日本側に伝え、ポーツマス会議間近でイギリスからの情報により、アメリカが隠していたソ連との交渉案が日本側に伝わり、困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。
もし、イギリスがこの情報を日本側に伝えていなければ、ロシアから権益を得ることは無かったかもしれません。
「その時、歴史が動いた」でこの内容の詳細が放送されていましたよ。


駿河山人 2005-08-28 14:47:25 No.216075
日米戦争を真珠湾攻撃前後に絞るのは間違いと思います。その前3年間の支那事変は当初はソ連、ついで米国がサポートしていたのですから。この支援がなければ蒋介石は戦争が出来なかった。
というより、蒋介石はソ連と米国に戦争をさせられていたのです。それもイヤイヤです。なぜなら対日戦争をすると毛沢東の共産党が復活し強くなるからです。しかし対日戦争を止めることは出来なかった。それは西安事件で蒋介石が降伏し、恥ずかしい写真を撮られるなど二度とソ連に頭が上がらないように押さえ込まれたからでしょう。だから日本の講和提案を断り続けました。最後に蒋介石は1945年春講和のためミョウヒンを日本に送りましたが、時既に遅く、講和はなりませんでした。蒋介石は生き延びるためには何でもするという人間で、格好をつけますが日本人から見ると低級な人間です。
みなとや  2005-08-28 19:06:28 No.216192

>西安事件で蒋介石が降伏し、恥ずかしい写真を撮ら
>れるなど二度とソ連に頭が上がらないように押さえ
>込まれたからでしょう。

軍閥が割拠している内乱状態で東北の張学良が蒋介石
を監禁したのに何故ソ連に頭が上がらないのか、説明
がほしいですね。

西安事件
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M045R200.HTM 
張学良は西安の中共根拠地包囲戦を指揮した。しかし
内戦停止・徹底抗日の必要性を認識していた張は,翌
年12月蒋介石に申し入れたが聞き入れられなかったた
め,蒋を西安に監禁した(西安事件)。

内戦停止・徹底抗日は紅軍の主張でもあったため,
西安事件は第2次国共合作・抗日民族統一戦線の結成
へとつながった。
みなとや  2005-08-28 20:40:02 No.216247
ノモンハン
http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/mongol.html 

>日米戦争を真珠湾攻撃前後に絞るのは間違いと思い
>ます。その前3年間の支那事変は当>初はソ連、
>ついで米国がサポートしていたのですから。この
>支援がなければ蒋介石は戦争が出来なかった。

というお話ですが、
1931年9月,日中の戦闘が起きた満州事変に際し
て,ソ連は中国援助をすることなく,中立を維持する
と連絡してきた。

そればかりか,東支鉄道(中華民国成立前の東清鉄道)
による日本軍の輸送も認めた。12月には,外務大臣
の就任が決まった芹沢謙吉フランス駐在大使は,陸路
シベリア鉄道で日本に帰国したが,モスクワで外相
(ソ連では外務人民委員と呼ぶ)リトビノフから,
日ソ不可侵条約の提議をされている。

1931年9月,日中の戦闘が起きた満州事変に際し
て,ソ連は中国援助をすることなく,中立を維持する
と連絡してきた。そればかりか,東支鉄道(中華民国
成立前の東清鉄道)による日本軍の輸送も認めた。

12月には,外務大臣の就任が決まった芹沢謙吉フラ
ンス駐在大使は,陸路シベリア鉄道で日本に帰国した
が,モスクワで外相(ソ連では外務人民委員と呼ぶ)
リトビノフから,日ソ不可侵条約の提議をされている。

1932年に日本が満州国を建国した翌年,1933
年4月には,満州国における日本の特殊利益を認める
形で,東清鉄道を日本に売却する申し出をし,1935年3月に譲渡協定が成立している。

みなとや  2005-08-28 20:49:12 No.216254
駿河山人さんへ

いつも、いつも違うことばかり言って申し訳ありませ
んが、

一部重複した書き込みは、ワープロに書いてから
掲示板にコピーしますが、1000文字オーバーする
ことがしばしばです。

それで狭い書き込み枠では編集を見逃すことがあります。
悪しからず。
みなとや  2005-08-29 03:06:46 No.216453
東清鉄道
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokaimodoki.html 

ロシアが満州(中国東北部)で建設した東清鉄道は、
鉄道附属地という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ
排他的な行政権」を有する区域の設定が認められ
ていました。

東清鉄道はバイカル湖から中国領内の満州里、ハルピン、
牡丹江などを通ってウスリー川へ至る路線。1896年
にモスクワで結ばれた露清同盟密約で建設が決まった
もので、ロシアにとってはモスクワと沿海州を結ぶ
大動脈である。

1912年に清朝が滅亡して中華民国が成立すると、
東清鉄道は東支鉄道または中東鉄道と呼ばれるように
なったが1917年のロシア革命でボルシェビキ
(後のロシア共産党)が政権を握ると大打撃を蒙った。

その後、1929年には張学良軍が中東鉄道の全面接収を狙ってソ連軍と衝突する事件が起きたが、結局
ソ連は内政を優先させるために中東鉄道を売却を決定。
当初は中国政府へ売却を打診していたが、32年に
満州国が建国されると、中東鉄道は満州国との合弁の
北満鉄道となり、35年にソ連は1億4000万円で
満州国(実際には日本)へ売却。満州国鉄となって、
その管理・運行は満鉄へ委託された。

日本はロシアから関東州の租借地のほか東清鉄道南部
線の長春〜大連間とその支線を譲り受け、1906年
に国策会社の南満州鉄道(満鉄)を設立して経営を引
き継いだが、沿線の鉄道附属地もそっくり引き継ぎ、
「満鉄附属地」と呼ばれるようになった。

満鉄になってから附属地はさらに拡大された。中国側
との協議なしに設定することができたのだ。満鉄が
中国人地主から買収したり賃借した土地は片っ端から
附属地になって、日本側の行政権が適用されていった。

市街地の大半が満鉄附属地となったが、その大部分は
鉄道とは関係ない土地で、奉天(現在の瀋陽)の満鉄
附属地は面積11・6平方kmのうち、実際の鉄道用
地は7%にすぎなかった。このように満州では都市住
民の多くが中国側の管轄が及ばない附属地の住民とな
り、とりわけ日本人やロシア人など外国人のほとんど
は附属地で暮らしていた。
みなとや  2005-08-29 04:01:45 No.216466
つづき

1924年9月20日、ソ連と東三省自治政府との間
で中東鉄道(東支鉄道)に関する協定を奉天で調印し
た。調印者はクズネツォフと鄭謙・呂栄寰・鐘世銘で
あり奉ソ協定と呼ばれる。

当時の中国における内乱は軍閥戦争と呼ばれるが、
大きな戦争は二回の奉直戦争に集約できる。いずれも
「直」が中にあるように、直隷軍閥が関係している。

直隷軍閥とは李鴻章・袁世凱・黎元洪・曹昆・馮玉
祥・宋文元と引き継がれた、北洋軍閥をさし、北京を
本拠地とした。つまり中央政権をめぐる戦いである。

中国内に住む日本人は多かった。その大部分は上海を
中心とする揚子江デルタ、天津=北京地区、山東省、
満州に居住し、25万人を越えていたものと推定され
る。居留民は、中国国内の治安悪化に悩み、日本軍の
武力介入に期待をよせた。

1929年5月27日、東省特別区警察は、ソ連総領
事館を襲撃し外来参加者39名を拘引した。理由はコ
ミンテルンの秘密会合が実施されたためだとされた。

この時の逮捕者はハバロフスク協定にもとづき翌年
2月釈放されるまで、拘留された。
この襲撃が、張学良によってのみ決行されたかといえ
ば、疑わしく、蒋介石が裏で命令した公算が強い。

国境一帯に張学良は二個旅団、1万1000人を貼り
付けていた。しかし、17日中にそのうちの第15旅
団(梁中甲)4000人は満州里に取り残され、日本
領事館に保護を求めた。

ソ連軍に惨敗した張学良は、最早蒋介石の指図をうけ
ることはなかった。張学良は蔡運升をハバロフスクに
派遣し、局長問題で全面譲歩することを伝えた。蒋介
石は国際連盟に提訴するからまてと伝えたようだが、
張学良は軍事的にその結論をまつ時間がなかった。

ソ連はハバロフスク会議で、責任者の処罰と賠償を求
めなかった。この種の交渉としては極めて寛大といわ
ざるをえない。
張学良軍の惨敗はその軍隊が近代的でないことに起因
している。すなわち、張学良「軍」とは見掛け倒し
で、実際は警察であるにすぎない。つまり、軍隊とは
独立して運用できることが必須であるが、張学良軍は
兵站組織をもたなかった。
みなとや  2005-08-29 12:04:01 No.216622
シベリア抑留
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/start.htm 

引揚げ港の舞鶴「吊し上げ」という言葉が流行った。
異国の丘という歌もあった。極寒のソ連の中央アジア
に抑留されて、吉村隊長の「暁に祈る」も当時新聞
紙面にあったニュースです。

岸壁の母
http://www.uchiyama.info/oriori/sonota/uta/ganpeki.shtml 

昭和20年9月28日、舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、
佐世保、鹿児島、横浜、門司を引揚港に指定して業務
を開始した。この膨大な、海外からの引き揚げは、国
内から駆けつけた肉親との再開は明暗と哀歓を織りま
ぜた人生の一大ドラマだった。同33年9月の最終船
入港までの13年間、数多くの新聞、報道関係の記者、
カメラマンの取材によって、内外に報道された。特に
舞鶴は昭和25年以降、国内唯一の引揚港として最後
まで重要な役割を果たした。 (舞鶴市HPより引用)


名無し 2005-08-29 15:51:59 No.216721
西安事件における張学良は単なる実行犯に過ぎない。
張学良を使ったのは中国共産党である。
張学良が回想録に書いている。
その中国共産党については、たしかソ連共産党のボロディンが管理していたと思うが。
みなとや  2005-08-29 22:26:43 No.216950
西安事件(1936年)と
1929年5月27日にソ連総領事館を襲撃したのは
年代と目的も違います。

一地方軍閥は中央政府ではないので、外国領事館を
襲ったので大きな問題となった。

東支鉄道は露清条約でロシアに権限があった。

尚、ボロディンという名前はロシアには多いので
ロシア5人組の国民樂派の作曲家を連想しました。
歌劇イーゴリ公のダッタン人の踊りは中央アジアの
異国ムードの音楽と踊りで好きなものの一つです。
みなとや  2005-08-30 00:10:35 No.217025
名無しさん

国民党の士官学校1924年5月の開校以来、ソ連の
ボロディンを顧問に迎え、初代校長に就任したのは
蒋介石で、政治部主任には欧州から 帰国したばかりの周恩来が任命された。

このボロディンさんのことですね。

歴史というのは年代別に並べ、系統的に憶えるのは
大変です。でも張学良の起こした事件でもこの件は
ボロディンさんは関係がなかったとおもいます。

これは推理ですが、蒋介石を恨むなにか原因があって
西安事件を起こしたようにおもいます。

満州は張作霖(父親)が関東軍の謀略で爆死したこと
もありいろいろ知らないことが絡んでいるのかも知れ
ません。列車通過するのに鉄道管理者のロシアに認可
を求めないと列車に乗れないし、それを関東軍が知って
内乱の時には分らないと思って関東軍は爆破した。
みなとや  2005-08-30 11:58:02 No.217263
張作霖
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M057C100.HTM 
1878〜1928年 馬賊の出身で奉天軍閥の首領。
辛亥革命では奉天警備を担当,その功あって1911年
中将第27師長,1919年までには全東北の実権を
握って奉天軍閥を形成した。

張作霖支配下の満洲の財政を見ると、1929年の歳入
は1億21百万元、歳出は1億48百万元で、27百万
元の赤字だった。歳出の7割近くは軍事費である。

歳入の大部分は塩税とアヘン収入だったが、歳入不足
を補ったのは、財産家の恐喝、誘拐、財産強奪だった。
さらにそれだけでは不足したので、民衆から5年先の
税金まで徴収した。

また勝手に紙幣を乱発しては、従来の紙幣を無効にし
て、民衆の財産を略奪した。税吏は超過税収額は自分
のポケットに収められるため、競って苛斂誅求に走っ
た。手っ取り早く蓄財できる徴税局長のポストは売買
の対象となり、局長職の競売も軍閥にとっては大きな
収入源だった。

張作霖は一時、北京政府の実権を握っていたが、19
28年、蒋介石の北伐軍が迫ると、奉天に戻る事とし
その途中で日本の関東軍に爆殺された。それまで日本
は一貫して中国大陸本土の軍閥内戦に不干渉の姿勢を
とり、戦火が満洲に広がるのを防ぐことを第一として
いた。しかし、張作霖の暴政への民衆の不満が高まり、
また軍閥内戦への参入で、戦火が満洲に持ち込まれ
る恐れも強まっていた。

関東軍は、満洲の権益を守るためには、張作霖を抹殺
するしかないと考えたのである。ただ爆殺自体は不法
な行為であり、田中義一内閣は昭和天皇のご信任を失
って総辞職した。

張作霖の息子で張学良が、関東軍のこの仕打ちに激怒
し、率先して蒋介石に降伏してしまったので、満州も
中国国民党の支配下におかれることになってしまった。

事件が起きた当初、西園寺は激怒したが、首謀者の関
東軍参謀である河本が、何が何でも処罰すれば「世界
中に真相をばらすぞ」と脅かしたので、西園寺は天皇
を守るために豹変したのが真相であろう。

このとき、天皇は若干27歳。意外であるが、この頃
の軍人は昭和天皇を小馬鹿にしている

満州紀行
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo2.html 
駿河山人 2005-08-30 12:08:22 No.217267
米国は日露戦争当時から満洲に関心があった。ハリマンの南満洲鉄道への出資要請もその一つであった。日本は乗っ取りをおそれて断り、このあと米国の対日姿勢は悪化する。1917年のロシア革命の混乱で、連合軍の英仏は革命内戦のロシアに取り残されたチェコ軍の救出を連合軍の日本に要請。日本は米国との共同出兵を条件として出兵した。当時の沿海州は無政府状態が始まり大混乱。一般市民は秩序の確立を望んだが、暴行、略奪,放火の横行で多くのロシア人が満洲に脱出した。
当時の米国はロシア革命に同情的で、共産党への警戒心はなかった。そこで目的は日本の牽制にあった。やはり沿海州に野心があったのである。米国はキレイゴトをいっているが、その裏には支那、満洲、沿海州を支配する野心が見て取れる。米国は十分広い国土があるのに、なぜアジアに強い関心を持ったのだろうか。
みなとや  2005-08-30 12:50:53 No.217286
駿河山人さんへ

>当時の米国はロシア革命に同情的で、共産党への
>警戒心はなかった。

ロシア革命による共産党への警戒があったから出兵
して多国籍軍に加わった。結果的にヨーロッパ諸国
が撤兵したのでアメリカも撤兵した。

>そこで目的は日本の牽制にあった。

それは、その当時の話としては説得力に欠けると思う。
何故、残された日本人が、尼港の惨劇に遭ったのか
説明し難くなります。

シベリア出兵
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-siberia.html 

1918年(大正7年)、シベリア出兵に参加した列強
(日・米・英・仏)の当初の(特に英・仏の)狙いは、
第1次世界大戦で交戦中のドイツに対して、東西二正面
作戦を余儀なくさせるということであり、「社会主義
(政権)が各国に拡散することを防ぐ(防共)」という
2つのことを目的にしていたのであるが、適当な言い
がかりを付けて列強各国はシベリアに兵力を派遣した。

一方、ウィルソン大統領率いるアメリカは、日本とシ
ベリアへ共同参戦して、英仏を牽制する意図があった)
を持って派遣したのだが、英軍は既に撤兵に決し、
大正9年1月には米国政府はシベリア派遣軍の撤退を
通告、4月までに全部隊の撤収を完了、支那軍は7月、
仏軍と伊軍は8月に撤兵完了した。

日本は最後まで残り、「尼港の惨劇」として世界中に
報道された。病人、一般居留民を含む虐殺事件だけに
日本人のうけた衝撃は大きかった。

死者は軍人351名、居留民384名の多きに達した。
みなとや  2005-08-30 13:13:04 No.217295
中国内戦の続き

満洲事変は日本の中国侵略の第一歩とされているが、
実際には張作霖・学良の軍閥政権のもとで苦しめられ
ていた満洲全土の民衆は快哉を叫んだ。

我が東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、今
やこれらの悪勢力を一蹴すべき千載一遇の機会に
到達した。

満洲国建設を「関東軍の一部の陰謀」と呼ぶこともで
きようが、その「陰謀」の結果、満洲の3千万の民衆
は、中国本土よりもはるかに安定した生活が営めたの
である。

蒋介石は中断していた共産党の包囲殲滅作戦に全力を
傾け、80万の軍勢で15万の共産党軍を攻撃した。
追いつめられた共産党がとったのは、日本軍と国民党
政府を戦わせる戦略だった。

そのための引き金となったのが、夜の「蘆溝橋事件」
である。中国公定史観では日本軍の謀略とされている
が、7月29日に通州で邦人居留民(朝鮮人を含む)
二百余名が虐殺された通州事件、という流れを見れ
ば、真実は明らかであろう。

国民党の副総裁・王兆銘は、共産党こそ真の敵と考
え、日本と和平を結び、南京政府を樹立した。こうし
て南京政府、国民党政府、共産党の鼎立状態となった。
三国志時代の再来であるが、一つ異なる点は、それぞ
れの背後に外国勢力がついていたことである。

蒋介石政権に対しては、英米は大東亜戦争勃発前から
大量の兵器や物資の支援を行い、特にアメリカはフラ
イング・タイガースと呼ばれる航空義勇軍まで派遣し
ていた。ソ連は中国共産党を指導し、国共合作時には
大量の顧問団を国民党に送り込んでいた。

日本が敗れた後、蒋介石政権に漢奸(売国奴)として
裁判にかけられた王兆銘夫人の陳壁君は次のように述
べた。

日本に通じたのが漢奸なら、国民党はアメリカと、
共産党はソ連と通謀したではないか。我々の志が間違
っていたのではない。単に日本が負けただけだ。

駿河山人 2005-08-30 19:59:15 No.217471
米国人の祖先は欧州の下層階級が食い詰めて米大陸にわたってきたものだ。だから王政とか皇帝にたいして本能的に反感を持っていた。そこに圧制で悪名高いロシア帝国で反乱がおきたので、皆革命派を応援した。大体ニューヨークの自由の女神像はフランス大革命のシンボルである。フランス革命では200万人が殺されたという。殆どは無実の人々である。だから米国の、特に民主党には美名で飾るが、暴動と破壊への共感がある。
米国の金持ちジャーナリストのジョンリードは「世界を揺るがせた十日間」を書いて、左翼革命宣伝に貢献した。すぐ死んだのでクレムリンの壁に革命功労者として埋葬されている。しかしのち彼の著作は、「葬式と結婚式を取り違えた」と酷評された。米国にはこうした共産主義についての誤解があり、それが大東亜戦争当時のルーズベルトの十億ドルに上るスターリン支援にまでつながっている。米国人が反共に変ったのは1950年になってからである。それまでソ連は米国の親密な友だったのだ。もっともソ連は終始米国を敵視していたが。
みなとや  2005-08-31 02:54:44 No.217661
資本主義とは
http://www.mfi.or.jp/kumiya/stock11f.html 

マルクスが利潤や剰余価値を生む社会システムのこと
を資本主義といったので、封建制度の世襲制度の支配
的なロシアのような農奴制度の国と資本主義の発達し
たアメリカとでは世界が違い過ぎます。

資本主義が成熟してから社会保証制度に移行すればよ
いが、いきなり資本主義を体験しないで共産主義にな
ると、利潤という考えかたを搾取だと言い出しかねな
いのでアメリカは本気で共産国を援助をするつもりは
なかったと思います。第一議会が承認しないと思います。

ルーズベルトは例をみない大統領4選でしかも戦争と
いう非常事態の時は大統領権限も強化されてました。

ロックフェラーのような財団が出来る高度に発達した
資本主義の国が閉鎖的なソ連式共産主義の国にルーズ
ベルトが援助したのは全体主義国のドイツと日本の戦
争を早く終わらせたいという理由で援助した。

ドイツが降伏後ベルリン郊外のボッタムで会議をした
ときは既に米大統領はトルーマンに代わっていたが、
会議中にニューメキシコでの原爆の実験成功のニュー
スが入った。
アメリカがソ連の参戦の約束をしなかったら歴史も
大いに変わっていただろうと思います。

丁度イラン、と敵対していたアメリカはイラン、イラク
戦争ではイラクに武器援助したパターンと同じである
と言えます。
駿河山人 2005-09-01 09:28:05 No.218281
ブッシュ大統領が対日戦争60周年で演説した。
気のついた米国の弱点を以下記します。
1.近代史からソ連と蒋介石が消えている。戦前の米国の親密な戦友がオーストラリアとニュージーランドだけになっている。戦後独裁国家スターリンと野蛮な軍閥の蒋介石のおぞましい姿が暴露されたので、さすがに手を組んで日本を攻撃したとはいえないのであろう。これが米国の弱点と分かる。
2.日本のアジア解放を歪曲。日本は殖民地を占領したが、欧米と同じように支配したと述べている。しかし日本が欧米の宗主国と異なり独立のため現地人に民族意識、一般教育、数万人の大規模軍事教練、行政経験を教えたことを隠蔽している。日本の独立支援の評価は解放されたアジアの国にしたがうべきであり皆感謝している。これは史実の歪曲、偽造であり米国の大きな弱点である。
3.今日本が大東亜戦争でアジアでは勝利したという史実認識が欧米で広まり始めている。アジア各国は日本の教育で、欧米との残酷な独立戦争を戦い抜き独立を達成した。この史実は隠せない。
それに対して、抵抗勢力は苦し紛れに史実の隠蔽、歪曲、偽造を始めているのである。
駿河山人 2005-09-02 20:57:52 No.219193
米国のブッシュ大統領は自由のために日本を攻撃したというが、自国の黒人系米国人には選挙権はなかった。ちょっと違うのではないか。それに盟友ソ連は恐怖の独裁国家だった。蒋介石は野蛮な軍閥で選挙など有史以来したことがない。それにひきかえ日本は戦前既に普通選挙制度が行われていた。
史実認識がデタラメである。
米国で重要なのは1950年の赤狩りである。これで米国は容共から自由主義へ転換したのである。米国が一貫して反共ではなかったことを確認しておきたい。
みなとや  2005-09-03 14:05:00 No.219505
駿河山人さん

少し違います。アメリカは孤立主義のモンロー大統領
以来積極的にヨーロッパ、アジアには干渉しない主義
をとってきました。容共などアメリカ国内にはない。
枢軸国に勝って戦争を終わらせたいためにソ連にも援助
したのは勝つための方便であった。

>米国で重要なのは1950年の赤狩りである。これ
>で米国は容共から自由主義へ転換したのである。米
>国が一貫して反共ではなかったことを確認しておき
>たい。

後だしジャンケンでストーリを書くと面白いですが
大戦前からと戦争が終わってからのとでは背景がガラッ
と変わった。マッカーシーの赤狩りは事後対策です。

フランスの共産党もイタリア共産党も、ギリシャなど
の共産勢力が強くなるのを懸念して、戦争で荒廃した
ヨーロッパ諸国ではソ連を盟主とする東欧諸国を衛星国
としたことからアメリカは伝統的な孤立主義を棄てた。

アジアでは朝鮮戦争も起きましたが、ソ連の超大国
に対抗するためにアメリカは西側諸国の結束を図る
ためにその後NATOの結成となる。
みなとや  2005-09-03 14:19:33 No.219516
一般に共産主義は高度に発達した資本主義国では
共産主義にする素地がありません。

マルクスが共産党理論、資本論、利潤論などにある
ように資本主義を成熟してから社会保障を考えて
行かないと、農奴制度など身分をそのままにして
上からの共産主義は帝国主義と同じで、お上からの
お布れをおとなしく聞くうちは政治もし易い。

アメリカは独立戦争からして下からの革命であった。
フランス革命も下からの庶民からの革命であった。
ロシア革命は20世紀に入ってからドイツのマルクス
の共産理論を取り入れたが、スターリンの独裁を許した
のが最大の失敗であった。

冷戦の起源 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%88%A6#.E8.B5.B7.E6.BA.90.EF.BC.881945.E5.B9.B4-.EF.BC.89
名無し 2005-09-03 17:16:28 No.219600
米国は日本を占領してから、日本自体の破壊を始めています。それが憲法破壊であり、日本の国防から司法、教育、経済,社会,文化などのすべての破壊です。
このため国務省のジョージケナンは占領3年後の1948年に来日し、それまでのマッカーサーの日本徹底破壊政策の結果を見て呆れています。内務省もなくなり、FBIにあたる国家警察も廃止され市町村警察となり、日本の警察力は米国のシェリフ制度レベルに低下しました。
これでは共産党に日本を支配させるための下準備と変らない。それでも日本を再建する方向が出てきた原因は、中共の勝利と朝鮮戦争の勃発でしょう。マッカーサーは公聴会で日本の非武装は日本人が言い出したといいわけをしていますが、自分の責任を逃れようとしているように思われます。彼は日本の報復を恐れて軍隊を廃止しましたが,すぐに日本防衛の巨大な人と金を米国がまるごと負担しなければならないということに気付き、大失敗と分かりました。しかし時すでに遅かったのです。
みなとや  2005-09-03 21:02:00 No.219688
戦後、野坂参三、徳田球一、などは中国の延安から
引き揚げてきて日本共産党の幹部はそろった。他に
網走刑務所にいた人たちも解放された。まさに米軍
は解放軍だった。ところが、

レッドパージ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B8 

終戦後、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、労働運動が激化し、

1949年の連続謎の事件
下山事件、三鷹事件、松川事件は謎で、一説には
アメリカの謀略説もある。

また1949年に中華人民共和国が成立して、朝鮮
半島も不穏な情勢になると、弾圧する方針に転じた。

マッカーサーは共産党の非合法化を示唆し、6月はじ
めに徳田球一ほか共産党中央委員、及び機関紙「アカ
ハタ」幹部を公職追放にした。

7月以降、GHQの勧告によりマスコミ(新聞・放送)、
官公庁、企業などでも追放が行われていった。当時の
共産党は内部分裂状態だったこともあり、組織的な抵
抗もほとんどみられなかった。
みなとや  2005-09-03 21:32:19 No.219719
>米国は日本を占領してから、日本自体の破壊を始め
>ています。それが憲法破壊であり、日本の国防から
>司法、教育、経済,社会,文化などのすべての破壊です。

憲法破壊というのはいささか感情的になっていますが
当時は貴族院も衆議院も満場一致で新憲法を可決して
いるので、憲法破壊ではありません。

警察制度は狭い日本には馴染まないものなので後に
警職法は改正されました。国家警察と地方警察の2つ
の警察が同居しているところもあった。

内務省は解体して廃止されました。内務省といえば
特高警察、ドイツのゲショタボのイメージを払拭する
ことも民主化の流れには必要なことだったと思います。

それにもう一つ、教育制度が六・三・三・四制度に
なった。農地改革で地主と小作人の制度は廃止された。
教育で地理と歴史を廃止されたことは、現在の歴史
認識に欠ける原因になったと思う。それに修身という
道徳と精神面の教育は内容は検討の余地はあったと
思う。

民法も改正されて家族制度も変わった。長男が家督
相続することがなくなった。

中国や韓国のように儒教で精神的縛られるなくなったが
いささかドライになった感もある。
駿河山人 2005-09-03 22:56:13 No.219789
日本の占領にあたり、米国賠償委員会のポーリー報告書は、「日本経済の最低限度を維持するのに必要のないものはすべて没収する。最低限度とは日本が侵略した諸国の生活水準よりも高くないという意味だ」と規定し、賠償取立ての対象となる工場、機械を指定していた。委員のラティモアは彼の論文で「日本が二度と一級の工業力を持ち得ないようにする」ことを示唆し、それがこの報告書で結実した。これが米の対日占領政策の大目的であった。あとは国力の基本となる重要な社会制度などの破壊工作を自由化、民主化といって売国日本マスコミを使って宣伝すれば皆騙されるというわけである。その通りとなった。ソ連が崩壊し日本の戦前の政策の正しさが証明されている。
みなとや  2005-09-04 00:31:22 No.219836
駿河山人さん

軍需工場は実質的に空襲でそれこそ物理的に破壊され
てます。例え残った工場施設も戦後は何も仕事がない。

航空機のプロペラを造っていた住友金属は鍋や釜など
の平和産業に転向した。
サンフランシスコ講和条約後は実質は主として役務賠償
が殆どで東南アジアの復興に寄与した。

皮肉にも朝鮮戦争1945年には小松製作所などで
早速米軍からの特需で銃器を製造むすることになり、車両、自動車など戦争に必要なものは総動員して軍需
産業は復活した。

タッタ5年しか経ってない。第一次大戦で連合国は
ドイツに苛酷な賠償を課したので20年後にナチスが台頭した教訓からアメリカ、中華民国(台湾)その他
アジア諸国は賠償を放棄している。

こんやBSドキュメンタリーでベトナムに残った元
日本兵の特集をしてました。ホーチミン軍とフランス
からの独立戦争には日本兵は協力した。

1945年8月15日の4日後の19日にはベトナム
全土にホーチミンの指令は徹底していた。

9月2日には独立を宣言した。ベトナムはフランスに
対しては軍の組織も指揮官もいない。

元ベトナム人民軍参謀だった、ホー・グエン・ザップ
大将は「我々の軍隊は創設したばかりで弱小でした」。
「新ベトナム人、つまり日本人に我々を支えてくれた。
その功績は大きく称揚されるべきです」。と語った。
駿河山人 2005-09-04 11:44:30 No.219958
>朝鮮戦争1945年には<
嘘はいけない。誤りなら訂正を。

歴史というのは表と裏がある。表だけなら年表で済む。しかし本質は裏にある。スターリンのように部下を口封じに処刑して隠蔽する政治家もいる。
当然裏に真実がある。それを見破るのが近代史の研究者だ。
みなとや  2005-09-04 13:44:16 No.219992
>皮肉にも朝鮮戦争1945年には小松製作所などで

誤り訂正
朝鮮戦争1945年→1950年です。

終戦………昭和20年(1945年)
朝鮮戦争…昭和25年(1950年)

この当時は未だテレビはなかったですが、主にラジオ
と新聞で生の情報を得ています。多分ベトナムの戦後
独立宣言の日時と交差して間違ったのだと思います。

駿河山人さん
>当然裏に真実がある。それを見破るのが近代史の
>研究者だ。

その裏のことを裏付けて調べて書いてください。
一般に記憶にあいまいなところを埋めるのに調べないで
憶測と創作で書いてしまうことが多いと思います。

自分がこの世に未だ居ないときのことの真実は、残され
た記録以外にはありません。しかし第二次大戦後は
60年前なので生き証人が居ます。

昨夜のBSドキュメンタリーでは、日本兵はベトナム
軍創設には日本軍の武器や装備と指揮系統など組織
は日本軍から学んでフランス軍を悩ましたが、
1949年中国共産党政権ができると、旧日本軍将兵
の扱いが急に変わったということです。

決して非友好的ではなかったが、中共とソ連の支援の
影響だったとおもいますが、現地で結婚した人が多か
ったが、ベトナムは日本に帰りたいだろうと盛んに
奨め、妻子には何も告げるなと口止めされていた。

現地に残った人、日本に帰った人それぞれを取材して
いて、ベトナムに残された子供といっても既に55〜6歳
になっている。

こういう話はインドネシアにも多い。中国と韓国以外
のアジア諸国では対日感情は良いのはこうした裏の事情
が大いに関係があると思います。

韓国朝鮮とは戦争をしていませんし、日本の本土と
違って空襲もなく、艦砲射撃など戦争を身近に実感
出来ることはなかったはずです。

それに盧武鉉大統領の年齢からすれば、植民地時代を
体験したわけがないのに、反日的なことをいう。
やはり戦後の李承晩時代から始る教育の結果だと思う。
みなとや  2005-09-04 23:52:43 No.220270
ベトナムのつづき

ベトナム8月革命 ハノイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%85%AB%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD 

1945年3月9日、仏印駐留の日本軍はフランス
植民地軍を武装解除し、インドシナ植民地政府を解体
した。日本はベトナムの形式的な独立を認め、フエで
年金生活を送っていたバオ・ダイ帝を担ぎ出し、親日
派のチャン・チョン・キム(陳重金)を首班とするベ
トナム帝国を樹立した。(但し、実体は日本の傀儡政権。)

日本のポツダム宣言受諾は近いとの情報を得たホー・
チ・ミンは8月19日にはハノイのベトミンは保安隊
や警察署など政府機関の接収に成功した。保安隊や警
察も大勢を見てベトミン側に付く者が増えていった。
すでに降伏を命令されている日本軍はただ事態を傍観
するばかりであった。

日本軍は自らの武器の引渡しは拒絶したが、フランス
軍から没収した武器の引渡しには応じた。日本が降伏
し、フランスがまだ復帰していない権力の空白に乗じ
てベトナム革命は成功したのである。

6月訪仏したホー・チ・ミンはフランス政府とも協定
を確認したが、ベトナム駐留のフランス軍との関係は
日増しに悪化する一方だった。12月19日、ハノイ
の仏軍は総攻撃を行い、ベトミン軍と交戦、第一次
インドシナ戦争が開始された。

1953年のジュネーブ協定によってベトナムの南北
分断は固定化され、フランスは1954年にインドシ
ナから撤退したが、冷戦構造のなかで米国が介入、ベ
トナム戦争(第二次インドシナ戦争)に発展した。

ベトナム民主共和国(北ベトナム)が南北の統一を
回復したのは1974年のことだった。この長い歴史
過程を総称してベトナム革命ということもある。
駿河山人 2005-09-05 06:01:53 No.220322
>すでに降伏を命令されている日本軍はただ事態を傍観
するばかりであった<

日本軍は連合国から現地独立軍に武器を渡さないように厳命を受けていた。連合国は殖民地統治の再開を狙っていたからである。しかし日本軍は独立軍を支援するため、あれこれ理由をつけて武器を現地人に渡したのである。それだけではない。武器の操作、戦闘の指導をするために、独立軍に参加し戦死した人も多数いるのである。ベトナム戦争を見ても分かるように、独立戦争は苛烈をきわめた。インドネシアでは戦死者は80万人という。日本はそれまでの軍政下で現地人に独立は自分で勝ち取るものであることを教え、教育で支援した。それは計画的な民族意識昂揚、一般教育、大規模軍事訓練、行政訓練である。欧米が長く禁じた部分である。現在欧米は日本の独立支援教育の成果を隠蔽しているが、歴史学者はアジアでは日本は勝利したと考えている。戦前とは一変したからである。仏領インドシナについては日本はフランス本国のビシー政権と合意し進駐したが、米国は認めなった。総督はロンドンの亡命政権の間でふらつき不安定だった。
歴史は簡単ではない。
みなとや  2005-09-06 11:30:12 No.221143
駿河山人さん

引越して、歴史討論:戦争責任と合祀で同じことを
いってますね。

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